徳川斉昭と徳川慶喜(「青天を衝け」4)
「青天を衝け」では、渋沢栄一と徳川慶喜の話を中心にストリーが展開していきますので、徳川慶喜に関することも書いていきます。
第1話では徳川慶喜の幼少時代が描かれましたので、徳川斉昭も主要人物として描かれていました。そこで、今日は、徳川斉昭と徳川慶喜について書いていきます。
徳川斉昭は、水戸藩第7代藩主徳川治紀(はるとし)の三男として、江戸の小石川上屋敷で生まれました。幼名は啓三郎といい、はじめ紀教(のりたか―この読みは国史大辞典による)と名乗り、藩主となってから斉昭と名乗りました。
斉昭は、文政12年(1829)30歳で兄の8代藩主斉脩(なりのぶ)の跡を継いで水戸藩の第9代藩主となりましたが、この時、次の藩主に誰にするかで藩内が二派に分かれて争いました。
藩の重臣たちを中心とする保守門閥派は、11代将軍徳川家斉の子恒之丞(清水家へ養子、のち斉彊(なりかつ)となる)を迎えようとしました。
斉脩の夫人峯姫は家斉の娘であることから、その同母弟の恒之丞を藩主に迎えて将軍家との縁を深め、藩財政の危機を救おうとしたのでした
それに対して藤田東湖や会沢正志斎ら下級藩士は斉脩の弟の斉昭を擁立しようとしました。
結果的に、斉脩の遺言により、斉昭が9代藩主となりましたが、この時の対立が、二派の抗争として斉昭が藩主となった後も続き、最終的に明治初めまで続くことになります。
斉昭は、藩主となると、戸田忠敞、藤田東湖、武田耕雲斎などの改革派の藩士を登用し藩政改革に着手しました。
これが幕府や諸藩に先駆けた水戸藩の天保改革と言われるものです。
斉昭の行った改革は幅広いもので、質素倹約の励行や財政再建策は当然ながら、藩内の検地の実施などの農政改革、文教政策の充実、武備の充実、仏教を排除する寺院改革などを行いました。
佐久間好雄氏によると、「この時期に行われた他の諸藩の改革や、また老中水野忠邦による幕府の天保改革とはその規模の点で、比較にならぬくらい大がかりのものであった。」(「徳川慶喜のすべて」より)そうです。
このうち武備の充実面では、追鳥狩の実施や大砲の鋳造などが行われました。
追鳥狩は「青天を衝け」で取り上げられていました。追鳥狩というのは山野で雉や山鳥などを勢子とよばれる雑兵などに追い立てさせ、弓や銃で狩をするもので、実際は大規模な軍事演習でした。
斉昭は天保11年(1840)3月に第1回を水戸城南の千束原で行ったのを最初として天保15年まで毎年実施しています。
尾高惇忠が水戸で追鳥狩を見たというは天保12年とされていますので、第2回の追鳥狩であったことになります。
また、文教政策の充実では、藩校弘道館の開校と偕楽園の開園が有名です。下写真は弘道館の正庁です。

このように天保の改革が進捗する中、天保14年(1843)4月の将軍家慶の日光社参に随行するため一時江戸に上り、再び水戸に戻っていた斉昭は、弘化元年(1844)5月、突然の幕府の命令で江戸に呼び戻されました。
そして、江戸にもどった斉昭は謹慎処分を命じられて、家督は13歳の長子慶篤が継ぎ、斉昭は駒込の別邸に幽閉されました。
「青天を衝け」でも、水戸にいる斉昭に突然幕命が届けられ、阿部正弘から謹慎が命じられる場面がありましたが、あの場面のように斉昭にとっては相当のショックだったと思います
この斉昭の失脚については後日改めて説明しようと思います。
さて、徳川慶喜ですが、徳川斉昭の七男として、天保8年(1837)に江戸小石川の水戸藩上屋敷で生まれました。
渋沢栄一が生まれたのが天保11年ですので、栄一より3歳年上ということになります。
幼い頃は「七郎麿」と呼ばれていました。
斉昭は男子22人,女子15人,合計で37人の子供がいました。
男子は長男の慶篤(幼名;鶴千代麿)を別として,2番目の子供からは番号制で名前を付けられました。慶喜は7男ですので「七郎麿」となづけられました。
ちなみに11番目の子は「余一麿(よいちまろ)」、20番目は「廿麿(はたちまろ)」、21番目は「廿一麿(はたひとまろ)」といいました。
慶喜は、大きくなると(8.9歳の頃と言われている),父斉昭の一文字をとって昭致(あきむね)となづけられました。
ちなみに、水戸徳川家の生まれですが、水戸家の世子以外の子はすべて「松平」姓を称しましたので、当時は松平昭致(あきむね)と称しました。
徳川慶喜と呼ばれるようになったのは一橋家を継いだあとからで、一橋家を相続した後,「徳川」姓となり、名前も12代将軍家慶の一字「慶」を拝領し「慶喜(よしのぶ)」と改名しました。
さて、慶喜は、生まれた翌年の天保9年(1838)水戸に移り住み、弘化4年(1847)一橋家相続の内命を受けて出府するまでのおよそ9年間,水戸の地で養育されました。これは、斉昭が子供の教育は幕府の許可をとって水戸で教育する事を基本としたためです。
こうして、水戸で育てられた慶喜に対して、斉昭は「七郎(後の慶喜)は天晴(あつばれ)名将とならん、されどよくせずば手に余るべし」と評していたといいます。
この斉昭の見込みどおり、慶喜は一橋家を相続することになります。
当時、一橋家では慶昌(将軍家慶の子)の跡を継いだ第7代慶寿(よしひさ)は、子供がないままに死去し、尾張徳川家から養子となった昌丸が相続したものの、3か月後に病死してしまいました。そこで水戸家の慶喜に一橋家相続の話が持ち込まれました。
「徳川慶喜公伝」によれば、弘化4年(1847)8月1日老中阿部正弘から、水戸藩附家老中山備後守に対して、一橋家当主の徳川昌丸の病気が重いので、もしなくなられた場合には、水戸の松平七郎麿に跡を継がせるようにというのが将軍の考えなので、速やかに出府して欲しい」と打診がありました。それに対して斉昭も同意したため、慶喜は8月15日水戸を出発して、18日江戸駒込の藩邸に着き、9月1日に一橋家を相続するようにと命じられました。この時慶喜はわずかに数え年11歳でした。
こうして慶喜が一橋家を継ぐこととなりました。
これ以降の慶喜については、「青天を衝け」のお話の展開に応じて書いていきます。

