栄一の一橋家仕官の理由と尾高長七郎(「青天を衝け」5)
渋沢栄一と徳川慶喜の最初の出会いについては、先日書いた下記記事で説明しました。
今日は、栄一と喜作がどうして一橋家に仕官するようになったかについて説明します。二人が一橋家に仕官するにあたっては、尾高長七郎が大きく影響しています。
尾高長七郎は、尾高惇忠の弟で、栄一より2歳年上の従兄でした。栄一は、7.8歳の頃から尾高惇忠に教えてもらっていたので、長七郎ともよく遊びました。
長七郎は、小さい頃から剣術が強かったようです。しかも、尾高家はあまり裕福ではなかったので、剣術家になるのがよいということになり、17.8歳の頃から江戸へ出て、海保漁村の塾で学問をし、心形刀(しんぎょうとう)流の伊庭(いば)軍兵衛に剣術を学びました。
栄一が22歳の時、長七郎から海保の塾へ来いという手紙が来たので三ヶ月ばかり江戸に行きましたが、その時は長七郎が海保塾の塾頭だったようです。
文久2年(1862)に老中安藤信正が坂下門外で襲撃された坂下門外の変が起きる以前、長七郎がその仲間に入ろうとして相談のために血洗島に帰って来ました。そこで栄一や喜作・惇忠が、長七郎の安藤襲撃参加に反対したため、長七郎も仲間に入らぬことにしました。
安藤信正襲撃の仲間から抜けたものの、坂下門外の変後、長七郎に嫌疑がかかったため、その嫌疑を避け、攘夷主義の中心である京都の情勢を知ろうとして長七郎は京都に逃れました。
そして、高崎城乗っ取り計画をいよいよ決行することとなり、長七郎を呼び返すために京都へ使いを出しました。
長七郎が帰って来ると直ちに評議を行いました。この会議の様子は先日書きましたが、最も積極論であろうと思った長七郎が計画に反対しました。そのため、大議論となりましたが、結局中止することになりました。その評議の最後に、長七郎が大声を出して泣き出しました。「まさか気が狂った訳ではあるまい」と思ったと栄一はのちに語っています。
この計画が中止となり、栄一と喜作は血洗島を離れることとなりましたが、長七郎は、血洗島に留まり、京都に上った二人が上方から情勢を知らせることにしました。
栄一たちは一度京都へ行って、伊勢参宮をしたりしていましたが、しばらくすると長七郎から手紙が届きました。
その手紙によると、血洗島から江戸に出ることとなり、その途中の戸田ケ原で誤って人を殺してしまい、小伝馬町牢屋敷に入牢させられたということでした。栄一が受け取った手紙は長七郎が牢から出したものでした。
長七郎が同志二人とともに戸田ヶ原(現埼玉県戸田市)を江戸に向かって歩いているとき、江戸方面から飛脚がやってきました。長七郎はいきなり抜刀しこの飛脚を斬り殺してしまいました。長七郎によれば狐が化けていると思ったとのことでした。
そのため、長七郎はその場で捕縛されて小伝馬町牢屋敷に入牢することとなったという連絡でした。
この手紙を見て、栄一は大いに不安となりました。長七郎が逮捕される以前に、栄一が幕府は早晩倒されるという手紙を長七郎宛に出していて、長七郎の手紙には、その手紙を懐に持っていたことが書かれていたからです。
当然のことながら、幕府の捕吏は栄一と喜作に対しても嫌疑の目を注ぐことになりました。
こうした事情があるため、手紙をもらった二人はすぐに相談しました。喜作は、すぐに江戸に戻るといいだします。それとも長州に逃げるかなどと議論をつづけましたが結論はでませんでした。
そうすると、翌朝、平岡円四郎から呼び出しがありました。そして、平岡円四郎からいろいろと質問を受けました。
平岡円四郎が二人を呼び出して事情を聞いたのは、幕府から一橋家に、栄一と喜作が一橋家の家臣かどうか問い合わせがあったためでした。
平岡円四郎は二人をかばうつもりでしたので、いろいろ事情を聞いたうえで、最後に「一橋家に仕官しないか」と勧めました。
そこで栄一と喜作は一晩の猶予をもらって相談しました。
二人は、当初は倒幕の考えを持っていましたので、その考えを捨てて一橋家に仕官するかとどうかといろいろと議論しました。
その結果、一橋慶喜も将来ある人だから、慶喜に拝謁の上、意見を述べてから仕へるということにしよういうことになりました。
翌日、その結論をもって平岡円四郎と会いましたが、それ以後のことは、すでに説明してある通りです。
このように見てくると、当初、一橋家に仕官する気があまりなかった渋沢栄一が一橋家に仕官したのは、尾高長七郎が幕府に捕縛され、栄一の身の回りに危険が迫ってきたため、身を守るために一橋家に仕官せざるをえなかったという一面もあるようです。
こう考えると、栄一の一橋家仕官のきっかけをつくったのは尾高長七郎ともいえます。(また、栄一は徳川慶喜と平岡円四郎によって救われたとも言えます。)
事実、渋沢栄一は、昭和3年11月に上野寛永寺で開かれた尾高惇忠と尾高著七郎の追悼会で「長七郎が、文久3年の高崎城乗っ取り計画を留めてくれたこと、そして、偶然とはいえ長七郎が人を殺めて幕府に捕縛された行為が、今日の私を作った奇縁ともいえる」と語っています。
米寿を迎えた栄一が60年以上前の出来事を思い出しての深い感慨だと思います。

栄一は、一橋家に仕官した後も長七郎が出獄できるよう働きかけますが、一橋家の力をしてもうまくいきませんでした。
その後、栄一はパリに渡航することになりますが、長七郎はその間、小伝馬町牢屋敷に入れられたままでした。
長七郎は、明治元年の夏に出獄し、血洗島の尾高家に戻り療養していました。そして、栄一がフランスから帰国し血洗島に帰郷する直前の明治元年11月18日に亡くなりました。
尾高長七郎は、現在、尾高惇忠も眠る尾高家の墓所に眠っています。先日も書いたように、尾高長七郎の墓碑は、渋沢栄一が建立したものです。 (上写真)

