徳川斉昭の失脚(「青天を衝け」6)
「青天を衝け」の第一話では、水戸藩領に在国していた斉昭のもとに突然出府するようにという通知が届く場面があり、斉昭の失脚が描かれていました。
そこで、今日は、「水戸市史」「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著、平凡社刊)「徳川斉昭」(永井博著、山川出版社刊)を参考にして、斉昭の失脚について書いていきます。少し長くなりますがご容赦ください。(下写真は永井博著の「徳川斉昭」です。カバー表紙に描かれているのが徳川斉昭の肖像画で、斉昭自身が細部まで指示して描かせたものです)

1,水戸藩主の就藩
水戸藩は、常に江戸にいる「江戸定府」の家柄と言われ参勤交代が免除されていて、藩主が水戸に在国する(以下、就藩といいます)ことは少ない藩でした。
江戸時代初期の初代頼房、2代光圀の時代には、就藩の回数が20回ですが、以後の藩主は就藩の回数が少なく、3代綱條の時の5回を最高に、4代宗堯(むねたか)・5代宗翰(むねもと)の時には、それぞれ2回、6代治保(はるもり)・7代治紀(はるとし)は1回、斉昭の前の8代斉脩(なりのぶ)に至っては一度も水戸の地を踏むことがないという情況でした。
しかし、9代藩主となった斉昭は、藩主就任早々から改革をすすめるため就藩を強く望んでいました。その望みが実現したのは藩主となって4年目のことで、天保4年3月に水戸に入り翌5年4月まで水戸に留まっています。次に水戸に就藩したのは天保11年1月でした。そして、その年の8月には翌年の7月までの就藩を幕府に願いだします。そして、翌天保12年には、在国中に、水野忠邦から、そのまま5,6年就藩してよいとの通知があり、天保14年の日光社参のため、一時江戸に出府した以外は、水戸にいました。そして、藩政改革に力を注いでいました。
2.将軍にも褒められた藩政改革
斉昭の藩政改革は、一時期、幕府からも高く評価されていました。
斉昭は、天保14年の12代将軍家慶の日光社参に供奉するため江戸に出府し、無事日光社参が終わり、一旦、江戸に戻り、5月16日江戸城に上り水戸に帰る挨拶をすませました。
すると再び江戸城に登城するよう命じられ、18日に江戸城に上り、将軍家慶よりお褒めの言葉とともに太刀・鞍・鐙・黄金百枚を賜りました。これは斉昭にとって一世一代の誉でした。
こうして、徳川斉昭の藩政改革は将軍よりお褒めの言葉を賜り、斉昭をはじめ藤田東湖ら改革派の人々も大いに喜び、斉昭の治世も絶頂期を迎えました。
しかし、その絶頂期を迎え順調に進むかに見えた斉昭の人生が、天保15年、一気に暗転し、斉昭は失脚することになりました。
3,斉昭失脚の経緯
斉昭失脚の経緯は、「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著)に詳しく書いてありますので、それに沿って書いていきます。
水野忠邦が失脚した後、老中首座となった老中阿部正弘は、天保15年4月13日を初日として16日・17日、自分の屋敷に水戸藩付家老中山信守を呼んで、水戸藩の治世に関する疑念7か条について尋問しました。
その7か条とは、①鉄砲の揃打、②財政困難の理由、③蝦夷地希望、④浪人の召抱、⑤寺院破却、⑥弘道館土手の高さ、⑦水戸東照宮の神仏分離の7か条でした。
中山信守は、それぞれの疑念に対して回答を準備して説明を重ねました。
しかし、幕府の納得を得られず、中山信守が最後の尋問を受けた翌日付けの土井利位・阿部正弘・牧野忠雅の三老中連署による「水戸中納言に参府を命ずる」との奉書が小石川の上屋敷に届けられ、すぐに水戸に送られました。
この時徳川斉昭は水戸城には居なくて那珂湊の夤賓閣(いんひんかく)にいたので、斉昭には20日に届けられました。
斉昭は通知を受けて、ただちに水戸に帰り、5月2日水戸を発ち5日小石川の上屋敷に入りました。通常ですと御三家が江戸に到着した際は、即日、老中が屋敷を訪れて祝意を奏するのですが、この時には、老中がお祝いに来なかったため、藩邸では不安の声が高まったそうです。
そして、斉昭が小石川上屋敷に到着した翌日の弘化元年(1844)5月6日に、水戸藩の支藩である高松藩、陸奥守山藩、常陸宍戸藩の三藩主(高松主松平頼胤、森山藩主松平頼誠、宍戸主松平頼縄)が上使として小石川の上屋敷に来邸し、「中納言殿驕慢に募られ、御不興に思召さるるにより、隠居仰出さる、駒込の屋敷に居住し、穏便にきっと御慎あるべし」との幕命が伝えられました。そして世子徳川慶篤が襲封を許されましたが、慶篤が幼いことから、前記の三支落主が後見するように命じられました。
こうして、徳川斉昭は、藩主の座を追われ駒込の中屋敷で謹慎することになりました。この時、改革派の若年寄戸田忠敞(ただあきら)、側用人藤田東湖も、役職を解任され蟄居を命じられています。
4,斉昭失脚を画策した人物
斉昭がどうして突然失脚することになったかについて水戸市史に詳しく書かれています。ご興味のある方は「水戸市史」中巻(4)をお読みください。
斉昭の失脚を画策した人物が具体的には誰かですが、水戸市史には興味深いことが書いてあります。
水野忠邦が老中首座の時、水野忠邦は斉昭を余り好んでいませんでしたが、排除することはなく、敬遠策を取っていました。その表れが、天保12年に5.6年の就藩を認めたことです。
その水野忠邦が失脚して新たに老中首座となった阿部正弘が水戸藩付家老を尋問していますが、阿部正弘は、老中に就任して日が浅く斉昭のことをよく知らないので、それほど意思決定に重要な役割を果たしていないと考えられています。阿部正弘について斉昭自身も「阿部正弘は、私の赤心を知らないだけだ」と書いているそうです。
そして、斉昭は自分を陥れた人は「姦吏姦僧」だとしばしば書いています。
水戸市史では、この姦吏とは幕府内では鳥居耀蔵忠耀(ただてる)ではないかと指摘しています。
また、水戸の姦吏とは門閥派の中心人物である結城寅寿(とらじゅ)であり、姦僧とは駒込大乗寺の住職で水戸領内稲木村(現常陸太田市)の久昌寺の住職を兼務していた日蓮宗の日華だとしています。
斉昭が失脚した事情について水戸市史はかなり詳しく書いていますが、結論だけ書くと、水野忠邦が老中首班の時は斉昭を敬して遠ざける敬遠策をとっていました。しかし、早い段階から幕府内部や大奥には、斉昭嫌悪感があり、一方で水戸藩内には、改革派に対する門閥派の不満が高まり、斉昭排斥運動が高まっていました。また、斉昭は、藩政改革の総仕上げとして廃仏政策ととりましたが、これ対して寺院には強い不満感が高まり寺院勢力による斉昭排斥運動が起きていました。こうした水戸藩内と寺院の斉昭排斥運動と幕府内の斉昭嫌悪感が合流して大きな流れとなり斉昭失脚となったのではないかと書いています。
5,斉昭の雪冤
徳川斉昭が隠居・謹慎処分となったため、水戸藩の下級藩士を中心に雪冤運動が起こり、半年後の弘化元年(1844)11月26日に老中阿部正弘が小石川上屋敷に来訪し謹慎処分の解除を伝えました。
しかし、藩政への関与は許されず、藩政に関与することを許されるのは嘉永2年(1849)のことで、さらに5年待たないといけませんでした。
七郎麿が一橋家の養子となったのは弘化4年(1848)9月で、まだ斉昭が藩政復帰を果たす前のことです。
そして、斉昭が、歴史の表舞台に再登場するのは、嘉永6年(1853)のペリー来航後のこととなります。
「青天を衝け」でも、竹中直人演ずる徳川斉昭が再登場するのは、しばらく後のことかもしれません。

