慶喜の養子先・一橋家(「青天を衝け」7)
「青天を衝け」第一話で、徳川慶喜は一橋家の養子となりましたが、一橋家は御三卿の一つです。
そこで、今日は御三卿と一橋家について説明します。
御三卿とは
御三卿とは、江戸時代中期に将軍家より分家した徳川姓の3家を指し、田安・一橋・清水の三家がありました。御三家と同様に、将軍の跡継ぎを準備するために創られました。
田安家と一橋家は、8代将軍吉宗の次男宗武と四男宗尹(むねただ)をそれぞれ初代とし、清水家は、9代将軍家重の次男重好を初代とします。
ちなみに慶喜は、一橋家の養子となった際、刑部卿に任官しています。
御三卿と御三家の違い
御三卿に似たものとして御三家があります。尾張藩徳川家、紀州藩徳川家、水戸藩徳川家です。
御三家は城持の独立した大名でしたが、御三卿は、将軍家の身内とされ、城を持たず江戸城の門内の屋敷で生活していました。
御三卿は、将軍家の身内とされていたため、大名である御三家とは異なる処遇を受けていました。
御三家は、江戸城に登城する際には他の大名と同じように大手門から登城し、表玄関から本丸御殿に入り、表向(儀式や政治を行う空間)にある大廊下を控え席とし、年始の際には白書院で将軍に謁見しました。
御三卿は登城の際に平河門を使い、中奥(将軍の日常生活をし執務を行う空間)にある御風呂屋玄関を通リ、御座之間近くの「御扣(ひかえ)所」に控え、年始の時には御座之間で対面しました。
御三卿の家臣
御三卿には家老その他の家臣がいましたが、家臣の多くは幕臣から付属させられていました。現代風にいえば、親会社の社員が子会社に出向しているようなイメージです。
もっとも御三卿が独自に採用する「抱入(かかえいり)」と呼ばれる家臣もいましたが、ごく少数でした。
渋沢栄一が一橋家に仕官をしますが、栄一は一橋家で独自に採用された「抱入」の家臣です。
御三卿の特徴
御三卿は、基本的には将軍子弟が相続しましたが、相続後しかるべき大名家があれば、そこへ養子を送り込むこととなっていました。
例えば田安家当主の斉荘(なりたか)は尾張徳川家を、清水家当主の斉順(なりゆき)や斉彊(なりかっ)は紀州徳川家を相続しました。
世嗣がいない大名は改易される決まりでしたが、御三卿に相続すべき男子がいない場合には、当主不在の明屋敷(「明屋形」)とされ、改易は免れました。
例えば、清水家初代の重好は子供がいませんでしたが養子をとることなく亡くなり、重好がなくなった後は、しばらくの間、明屋形とされ、当主が不在でした。
また、将軍の子弟等が当主となった後、他家に養子にいった後、相続すべき男子がいない場合にも、そのまま明屋形となりました。
例えば、徳川慶喜が将軍家を継いだ場合ですが、慶喜は8月20日に徳川宗家を相続しています。慶喜の後、一橋家を継いだのは、前尾張藩主の徳川茂栄(もちはる)ですが、茂栄(もちはる)が一橋家を継いだのは12月27日です。この間、一橋家は明屋形となっています。
一橋家の歴代当主
慶喜が養子となった一橋家は、8代将軍徳川吉宗の四男宗尹(むねただ)を初代とします。
宗尹は享保20年(1735)元服して徳川を名のり、江戸城一橋門内に屋敷を与えられました。これから一橋家と呼ばれるようになりました。下写真は、一橋家の屋敷跡の石碑です。丸紅本社の敷地内にあります。
ちなみに田安家は田安門内に屋敷があり、清水家は清水門内に屋敷があることから、その名前があります。

一橋家2代は、宗尹の四男治済(はるさだ)です。治済の嫡子の豊千代が11代将軍家斉となりました。3代以降は次の通りです。
3代斉敦(なりあつ)治済の六男
4代斉礼(なりのり)斉敦の次男 ここまでは実子による相続
5代斉位(なりくら)田安家の徳川斉匡(なりまさ)の四男、20歳で死去
6代慶昌(よしまさ)家慶の五男:14歳で死去
7代慶寿(よしひさ)田安家の徳川斉匡(なりまさ)の五男:25歳で死去
8代昌丸(まさまる)尾張藩主・徳川斉荘の次男:2歳で死去
9代慶喜(よしのぶ:15代将軍)
10代茂栄(もちはる)前尾張藩主、江戸時代最後の当主
一橋家の領地
一橋家の領地は、幕末期には武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中の8国22郡に散在して10万石ありました。

