栄一と東の家(ひがしんち)(「青天を衝け」10)
「青天を衝け」第2話にも出ていた渋沢宗助は栄一の伯父で、第2話では、祭りを取り仕切っていましたし、岡部藩の代官の接待も上座に座って行っていました。これからも、しばしば出てくると思います。渋沢宗助は、東の家(ひがしんち)当主で、栄一だけでなく喜作や尾高家とも関係の深い人物です。そこで、今日は、東の家(ひがしんち)について、「渋沢栄一とふるさとの人々」(鳥塚恵和男著 博字堂刊)「渋沢栄一を生んだ『東の家』の物語」(新井慎一著 博字堂刊)を参考にして説明しておきます。
東の家(ひがしんち)は渋沢一族の一家で当主は代々宗助を名のり、栄一が少年時代には、3代目宗助が当主で、血洗島一番の財産家でした。
東の家(ひがしんち)は、前の家(まえんち)から分家した家で、初代宗助が苦労して財産を大きく築きました。初代宗助の長男が家督を継いで2代目宗助となりました。2代目宗助は雅号を宗休といいました。
宗休には、子供が大勢いました。長男が3代目宗助です。この人が「青天を衝け」に出てくる宗助で3代目でした。3代目宗助は雅号を誠室といいました。
そして次男が文平で、この人は独立して「新屋敷の家(しんやしきんち)」という分家を立てました。この文平の長男が喜作です。つまり、喜作にとっても宗助は伯父ということになります。
長女やへは、隣村の下手計村の尾高勝五郎に嫁ぎました。そして勝五郎との間に3人の男の子と2人の女の子を授かりました。
3人の男の子は、長男新五郎(のちの惇忠)、長七郎、平九郎です。女の子は、大川家に嫁いだみち、栄一の妻となる千代の2人です。
そして、三男は元助といいましたが、元助は中の家(なかんち)のえいと結ばれて市郎衛門となのるようになりました。これが栄一の父です。
その頃の中の家(なかんち)は財産をかなり減らしていました。そこで中の家(なかんち)の立て直しのため、婿入りを決めたと言われています。
栄一と喜作、そして尾高惇忠とは、それぞれの親が東の家(ひがしんち)生まれの兄弟姉妹であるので、おたがいに従兄弟どうしということになります。
3代目宗助の子供たちは、まだ「青天を衝け」に出てきませんが、4代目と継ぐ新三郎(長徳)と5代目を継ぐことになるその弟(長政)がいました。 東の家(ひがしんち)を中心に中の家(なかんち)と尾高家の関係を図にすると下図のようになります。

東の家(ひがしんち)は、3代宗助の時代に最も栄えるようになり「大渋沢」と呼ばれるようになります。
東の家(ひがしんち)は、岡部藩の御用を賜り、苗字帯刀を許されました。
のちの話ですが、岡部藩の御用金を仰せつかった際に、中の家(なかんち)は500両を指定がありましたが、東の家(ひがしんち)は、その2倍の1000両を仰せつかっています。
このように、東の家(ひがしんち)は、血洗島最大の豪農ということになります。
しかし、単に財産があるというだけでなく、3代目宗助は、かなりの文化人でもありました。
前回書いたように、書もかなりの腕前ですし、それだけでなく剣道の腕も優れていました。そして、尾高惇忠の師である儒学者菊池菊城の支援もしています。さらに、養蚕技術の改良にも注力し安政2年には、「養蚕手引抄」という本を書いて無料で配布しています。
《2月26日追記》
「ふるさとの渋沢栄一」(新井慎一著 博字堂刊)に載っている墓誌碑によると、2代宗助の諱は政徳といい、3代宗助の諱は徳厚で神道無念流の秋田要助に師事し奥義を極めたとされています。
栄一の父市郎右衛門もかなり知的レベルが高い人物ですが、その兄の3代目宗助は、それ以上の教養人でもあるように思います。血洗島のような田舎で暮らす農家でも、かなりの文化的レベルの高い人物を数多く輩出していることに驚かされます。
のちに栄一が活躍できる素地は、こうした文化レベルの高い親族に囲まれて育ったという環境も大きく影響しているように思います。
最後になりますが、東の家(ひがしんち)は6代目宗助(長忠)の時に没落してしまい、現在の血洗島には、東の家(ひがしんち)の家屋敷はまったく残っていません。1960年代に「サド裁判」で話題となったフランス文学者渋沢龍彦は東の家(ひがしんち)の8代目当主です。

