渋沢栄一の剣術(「青天を衝け」11)
「青天を衝け」第2話で、尾高惇忠の指導のもとに、渋沢栄一、尾高長七郎、渋沢喜作たちが剣術の修行をしている場面がでています。
また、渋沢栄一は、自叙伝「雨夜譚(がたり)」で「14.5の歳までは読書撃剣習字等の稽古で日を送りました。」と語っていると前回書きました。そして、読書と習字については、前回説明しました。
そこで、今日は、栄一の撃剣(剣術)について書いていきます。

渋沢栄一について書いた諸々の本で、栄一の剣術の話はあまり出てきませんが、栄一は、農民の出身でありながら、剣術は相応に強かったようです。
栄一が剣術を学んだのは、東の家(ひがしんち)3代目宗助(誠室)の息子の渋沢新三郎(4代目宗助)でした。
「雨夜譚(かたり)筆記」で次のように語っています。ここで宗助というのは「青天を衝け」にでてくる3代目宗助ではなく4代目宗助です。
「私は小さい時から渋沢宗助に撃剣を教えてもらっていたが、その時までは宗助はまだ免許皆伝されていなかったから、表向きは大川平兵衛の弟子ということになっていた。昔は免許皆伝されていないうちは、弟子をとるわけにはいかなかった。それからのちに宗助が免許皆伝を受けたから宗助の弟子になったが、その頃、宗助はまだ新三郎といっていたので、私は神刀無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎といった。」
渋沢栄一(この頃には栄治郎と名のっていた)が教えてもらっていた渋沢新三郎(4代目宗助)は、川越藩の師範役であった神道無念流の大川平兵衛の弟子でした。
※大川平兵衛は、現在の熊谷市上之の農家に生まれ、熊谷市箱田の秋山要助に師事し免許皆伝を受け、現在の坂戸市横沼の大川家の婿養子となり屋敷内に道場を設けて弟子を指導しました。その後、川越にも道場を設け、文久2年(1862)、川越藩主松平大和守直克の招きで川越藩の師範役となりました。慶応3年(1867)松平大和守家が前橋に移封となったのに伴い前橋に移りました。
大川平兵衛には、渋沢新三郎だけでなく、尾高惇忠も指導を受けています。
ただ、「とにかくあの地方の中心が、撃剣は新三郎、文学は藍香(尾高惇忠)という風であった」(「渋沢栄一伝記資料-『尾高藍香・東寧両居士追悼会』」より)と栄一が言っているので、剣術は新三郎の方が上だったのでしょう。
また、「尾高長七郎等と2.3度修業のため野州、上州のあたりを廻った事もある。出掛けるのは、家業の合間を見て、たいてい春、秋、冬の三遍くらいで、少なくも十日間かかった。」とも言っていますので、長七郎(さらに喜作もいたかもしれません)たちと下野や上野に武者修行に出たこともあったようです。
長七郎はかなり強くて剣術の道で生計をたてようとして江戸の千葉道場で修業しましたが、文久元年(1861)栄一も江戸に出て修行しています。
この時は、長七郎と同じように海保漁村の塾で学びながら、千葉道場に弟子入りしています。有名な千葉周作は安政2年になくなっているため、栄一が弟子入りした頃には千葉の小天狗ともいわれた千葉栄次郎の代となっていました。
こうして腕を磨いた栄一の剣術がその効果を発揮することがありました。
一橋家に仕官してからの出来事ですが、一橋家独自の歩兵部隊創設のため歩兵を募集するため備中国に出かけた際に、関根という剣術家と試合をして勝負に勝っています。
また、幕臣になった際に、大沢源次郎といふ御書院番士を捕縛することにとなり、新選組の近藤勇と一緒に捕縛に向かった際に、近藤勇から、突然斬りかかれたらどうすると言われたが大丈夫だと言って、近藤勇とともに問題なく捕縛しています。
この話は「雨夜譚(がたり)」に書かれている話ですが、「市河晴子筆記」では新選組副長の土方歳三と一緒に捕縛に向かったと語っています。いずれが正しいのか不明ですが、「青天を衝け」では町田啓太が土方歳三を演ずると発表されていますので、このできごとには土方歳三が出てくるのかもしれません。
《2月26日追記》「青淵回顧録」には、土方歳三と共に捕縛にいったと書いてありました。

こうしたことから、血洗島という田舎で修業した剣術ではありながら、神道無念流の免許皆伝の渋沢新三郎(4代目宗助)の指導を受け、さらに北辰一刀流の千葉道場にも弟子入りして修行しているため、栄一の剣術の腕前は、相応の腕前だったと思われます。
もっとも、本人は、「まぁ、私は、田舎初段くらいのところだったろう。」(「雨夜譚会談話筆記」より)と言っています。
これを読んで「ご謙遜でしょう!」と私は思いました。

