慶喜と将軍家慶(「青天を衝け」12)
「青天を衝け」第2話で、一橋家に入った慶喜と12代将軍の家慶の親密な様子が描かれていました。
そこで、今日は、慶喜と将軍家慶の関係について書いていこうと思います。

慶喜が一橋家の養子となった背景
12代将軍家慶の父は11代将軍家斉です。家斉は55人の子女がいたという子だくさんでした。家慶も父家斉より子女の数は少ないとはいえ子だくさんで一説には23人の子供がいたと言われています。
しかしながら、ほとんどの子供が成人前に亡くなっていて、成人したのは家祥(のちの13代将軍家定)だけでした。慶喜が養子となる以前の一橋家の当主であった慶昌も、天保9年(1838)に14歳でなくなっています。
しかも、家祥には成人したものの、子供がなく、今後、子供が生まれるかわからない状況でした。
また、御三家の状況を見渡してみると、尾張家の世嗣に苦労していて、10代斉朝、11代斉温(なりはる)、12代斉荘(なりたか)、13代慶臧(よしつぐ)と歴代の藩主が全員養子でした。また、紀州家も11代斉順(なりゆき)、12代斉彊(なりかつ)と2代にわたって養子でした。
一方、水戸家は、8代斉脩(なりのぶ)に子供はいなかったものの9代斉昭は非常な子だくさんでした。
また、御三卿をみると、田安家の当主は慶頼でしたが、弟たちはすべて養子に出ていました。清水家は、当主の斉彊は弘化3年(1846)に紀州家の養子となっていて清水家は明屋形となっていました。
こうした状況で、一橋家の当主昌丸が亡くなったあとの養子となるのは水戸家の徳川斉昭の子供が最有力候補にならざるをえなかったという状況にありました。
将軍家慶は、水戸家の斉昭を「油断のならぬ男」と思っていた時期もあったものの外国船が日本に多くやってくるという状況の中で、斉昭が国防に強い関心をもっているため、斉昭に頼ろうという考えが強くなってきました。
また、七郎麿(慶喜)を一橋家の養子にという話は、水戸家の斉脩(なりのぶ)夫人の峯寿院(峰姫)から大奥を通じて働きかけがあり、峯寿院(峰姫)は家慶の異母妹ですので、耳と傾けざるをえなかったと「徳川慶喜公伝」に書かれています。
こうした状況下で、一橋家の当主昌丸が亡くなった際に、幼いころから優秀だという評判の高かった水戸家の七郎麿(慶喜)に白羽の矢があたることになりました。そして、七郎麿(慶喜)は、弘化4年(1847)9月1日に一橋家を相続し、12月1日に元服して将軍家慶から一字を拝領して慶喜と改名しました。
家慶の一橋家訪問
家慶は、慶喜を大変にかわいがったようです。「徳川慶喜公伝」によると家慶自身が「七郎麿は、初之丞(故一橋慶昌、家慶の子)に能く似たり」といい、大奥でも慶喜が賢明で眉目清秀なのをうわさしあったそうです。
そして、慶喜が一橋家当主となって半年後の嘉永元年(1848)3月18日、家慶は一橋邸を訪問しました。そして、それ以降も一橋邸をしばしば訪問しました。
そして、「いつも打解けて物語り給い、謡曲・仕舞を催さるる折は、公(慶喜)に謡(うた)わせて躬(みずか)ら舞い、躬(みずか)ら謡(うた)いて公に舞はせ給うなど、和気靄々(あいあい)たること、あたかも父子の如くなりき」(「徳川慶喜公伝」より)だったそうです。
「仕舞」とは、「能・芝居・舞踊などで、舞ったり、演技したりすること」ですので、まさに「青天を衝け」の場面の通りです。
家慶の深意は「慶喜を将軍後継に」だったかも(?)
嘉永5年(1852)11月、家慶は三河島で鶴の羽合と言われている鷹狩りを行いました。その都に、「こたびは一橋を伴ひ行かん」と家慶が言い出した、老中阿部正弘の意見を聞せました。その際に、阿部正弘が「おそらく内外での評判となるので、もう少し見合わせてほうがよろしいかと思います」と回答したので、家慶がうなずいて「少し早いか」といって取りやめになったという話が「徳川慶喜公伝」に載っています。
鶴の羽合というのは、将軍自身で捕らえた獲物を朝廷に献上するための鷹狩です。この鷹狩には世子以外は同伴した例がないため、家慶がこういうことを言い出したのは、家慶が心の奥底に慶喜を後継にしようという考えがあったのだろうと「徳川慶喜公伝」には書かれています。

