高島秋帆、釈放後の活躍(「青天を衝け」13)
「青天を衝け」で、幼い頃の栄一が岡部陣屋の中で偶然出会った高島秋帆は、ペリー来航により国防の強化が求められる時世の中で、ようやく釈放されることになります。
本日の「青天を衝け」では、釈放され江戸に戻る高島秋帆から励ましの言葉を栄一がもらっていましたが、玉木宏演ずる高島秋帆は、幽囚の時とは様変わりした凛々しい侍姿でした。
秋帆は、栄一を励ますとともに「自らも励む」と言っていました。そこで、今日は、高島秋帆が釈放された後、どう活躍したかについて書いていきます。
岡部藩の陣屋に幽閉されていた高島島秋帆が釈放されたのは、ペリーが来航した後の嘉永6年(1853)8月6日です。下写真は、高島秋帆が幽閉された地に建つ「高島秋帆幽囚の地」の碑です。

高島秋帆の釈放を認めたのは老中阿部正弘です。阿部正弘は、江川英龍が引き取るという形で高島秋帆を釈放することを認め、高島秋帆は釈放されました。長崎で逮捕されてから実に10年10カ月ものの年月が過ぎていました。
自由の身になった秋帆はこのことを喜んで、名前を喜平(きへい)と改めました。釈放後、高島秋帆は、江戸に戻り、芝新銭座にあった江川太郎左衛門英龍の屋敷に落ち着きました。
嘉永6年6月、浦賀に来航したぺリーはアメリカ大統領の国書を渡し、翌年の再来航を約束して一旦国外に去りました。
ペリー来航を翌年にひかえ、幕府は諸藩に意見をもとめましたが、その多くが開国反対でした。そうした中で、高島秋帆は、釈放後間もない10月に「開国して通商すべき」とする「嘉永上書」と呼ばれる意見書を幕府に提出しました。
これを提出するにあたって、事前に江川英龍に相談すると、江川は提出すれば「不慮の禍」にあう怖れがあると諫めました。しかし、秋帆は「一身の禍害は怖れるところではありません」と決意を語ったので、江川も同意して提出したそうです。
嘉永7年(1854)にペリーが再来航し、幕府は日米和親条約を締結し日本は開国することになりました。
幕府が開国を決断するうえで「嘉永上書」の効力があったとの歴史的資料はありません。しかし、この「嘉永上書」に関して、人物叢書「高島秋帆」(吉川弘文館)で著者有馬成甫は次のように述べて高く評価しています。
「この時機において、堂々と然も理路整然と開国政策を論述したのは、実に高島秋帆一人であったことは記憶せられるべきである。事実上幕府は遂に開国政策をとるようになった。これは『嘉永上書』によって、動かされたものであると論じてもいい過ぎではなかろうと思う。」
秋帆の命の恩人ともいうべき江川英龍は、安政2年(1855)1月16日に突然亡くなってしまいました。しかし、品川台場の築造の工事が続行されているため、高島秋帆は、江川英龍の跡を継いだ江川英敏を輔佐して品川台場を5月に完成させました。
これによって江川英敏に対して幕府より褒美が与えられとともに、秋帆に対しては、安政2年5月4日付で、褒美として金五両を与えられました。そして、まもなく安政2年7月20日に御普請役に昇進します。
それから1年後の安政3年11月25日、高島秋帆は西洋砲術の開祖として次のような賞詞を受けました。
「壮年の頃より西洋砲術の利用につき格別に熱心で、下曾根・江川などへ伝授し、この頃一般に普及することとなったことは、全く流祖と言ってよい格別の功業である。そこで特別に新規召抱え十人扶持を与え、諸組与カ格となし、江川太郎左衛門の手附を命ずる。」
高島秋帆は、この時から「火技中興洋兵開基」の印を用いるようになりましたが、この言葉は、老中阿部正弘が贈ったものと言われているそうです。
安政4年(1857)12月富士見御宝蔵番・講武所砲術師範役を命ぜられ、七人扶持を加増されました。
万延元年(1860)神田小川町に新築された講武所が竣工したので、高島秋帆は小石川小十人町(指ヶ谷町)に移転し、ここから神田小川町の講武所に通いました。
そして、慶応2年(1865)正月14日、講武所師範役の現職のまま病死しました。お墓は文京区本郷向丘の大円寺にあります。法名は皎月院殿碧水秋帆居士といいます。行年69歳でした。下写真の中央が高島秋帆のお墓です。
(なお、高島秋帆のお墓が向丘の大円寺にあるのか以前から不思議に思っていましたが、講武所時代の住いが大円寺の近くにあったとのことで昔からの疑問が解決しました。)

このように釈放後も砲術面で活躍した高島秋帆は、史実のうえでは、釈放後も渋沢栄一青年との接点はありません。しかし、「青天を衝け」では、玉木宏演ずる高島秋帆が、どのように活躍するのか、あるいは、これでおしまいとなるのか、今後の展開が楽しみです。
高島秋帆のお墓は、前述の通り文京区向丘の大円寺にあります。お墓の場所は下記地図をご参照ください
《3月1日追記》
板橋区赤塚の松月院に、「火技中興洋兵開祖高島秋帆紀功碑」という高島秋帆を顕彰する碑があります。松月院は、高島秋帆が徳丸ヶ原の調練時に本陣とした寺院です。秋山好古や上原勇作等陸軍の名だたる将軍を中心とした発起人により、大正11年(1922)12月に建立されました。阿部正弘から頂戴したという「火技中興洋兵開祖」という語句が使用されています。
この碑の建立にあたっては、明治天皇から200円の下賜があり、有栖川宮・伏見宮・閑院宮等十三宮家からも300円の下賜がありました。このことからも、高島秋帆の功績の大きさがわかります。また、渋沢栄一もこの碑の建立にあたり200円の寄付をしています。下写真は、板橋区役所のご了解のもと転載させていただいています。

ちなみに明治時代の1円は現在の2万円ぐらいの価値があったそうです。(野村ホールディングスと日本経済新聞が運営しているサイトman@bowによる)
松月院の場所は下の地図を参照してください。

