栄一の江戸行き(「青天を衝け」15)
「青天を衝け」第3話では、栄一が初めて江戸に上り感激するシーンがありました。栄一は身体全体で喜びを表していて好感がもてました。
栄一は、血洗島に住んでいる間、江戸に何度か出かけています。
「雨夜譚(がたり)」で語っている限りでは、4回出かけています。
1回目は、嘉永6年(1653)の時、そして2回目は、その翌年嘉永7年(1654)、さらに文久元年(1861)、そして、文久3年(1863)の4回です。
さらに、血洗島を出奔して京都に向かう時には一旦江戸に出てそれから京都に向かっていますので、それを加えると5回になります。
「青天を衝け」第2話では、このうちの初めて江戸に行った時のことが描かれています。
栄一が、初めて江戸に上ったのは、嘉永6年(1653)の3月のことと「雨夜譚(がたり)」で「はじめて江戸へ出たのは14の年の3月と覚えているがその時には父に随行した。」と語っています。
嘉永6年3月といえば、ペリーが浦賀に来航したのが6月ですので、その3ヶ月前のことです。「青天を衝け」第2話で、喜作が栄一に、「もう少し、江戸にいれば、黒船が見られた」という場面がありましたが、まさに喜作のいう通りでした。
「雨夜譚(がたり)」には、前述の通り、江戸に行ったという事実が書いてあるだけで、この時の様子がどうであったかについては全く触れられていません。
従って、「青天を衝け」で栄一が経験した江戸の話はすべて創作ということになりますが、まったく違和感がありませんでした。日本橋の越後屋まで出てきたのには驚きました。もちろん、平岡円四郎との出会いも脚色です。そうした創作のなかで、とりわけ、神田紺屋町の様子などは、歌川広重の名所江戸百景の神田紺屋町(下画像)を思い起こさせる映像だと感心しました。

(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
栄一は、翌年の嘉永7年にも江戸に上っています。これが2回目です。
この時は、母親えいの妹が嫁いでいる渋沢保右衛門と一緒に江戸にでています。
「雨夜譚(がたり)」には、この時に小伝馬町の建具屋で、桐製の本箱と硯箱とを買って戻りましたが、その本箱と硯箱が家に届いた際に、市郎右衛門がそれを見て、あまりにも華美にみえたため、ため息をはいて大変がっかりし、3日も4日も、お前を見限ったというような口ぶりでたしなめたことが書いてあります。
その父親の様子をみて、伯父の保右衛門も、叔母も母も喜作の父親の長兵衛なども、かわるがわる栄一にかわって父に詫を言ってくれましたが、父親の機嫌はなかなか直らず、栄一の生涯にとって、実際これほど残念な失敗はなかったと「竜門雑誌」で語っています。
また、この時には別のエピソードもあったようです。
二人が迷って桔梗門の中へ入り込んでしまい、人相の悪い中間(ちゅうげん)に捕まってしまったことがありました。その時、栄一はお金をつかませれば助かるという話を思い出し伯父さんに話したところ、伯父さんがお金を出してくれて、中間(ちゅうげん)はうってかわった顔付をしてすぐに解放してくれたというエピソードを「竜門雑誌」で語っています。
この2回目の江戸行きが「青天を衝け」で描かれるかどうかは微妙だと思っています。
3回目の江戸行きは文久元年で、この時には尾高長七郎が学んでいる儒者海保漁村の塾で学びながら千葉道場にも通っています。ここで多くの人と交流し同じ攘夷思想をもつ仲間をみつけています。
4回目は文久3年です。文久3年には、高崎城を乗っ取り横浜の外国人を襲撃しようという計画が進行中でしたので、そのために武器や装具を整えるために江戸に上っています。
この3回目と4回目は、「青天を衝け」で描かれる可能性が大いにありますので、後日改めて紹介させていただきます。

