徳川斉昭と大砲(「青天を衝け」16)
「青天を衝け」第3話で、徳川斉昭が大砲を幕府に献上した場面がありましたが、徳川斉昭が幕府に大砲を献上したのは、ペリーが来航した直後の嘉永6年6月のことでした。そこで、今日は、斉昭と大砲との関係について書いてみます。
斉昭が展開した天保の改革の中で、斉昭は軍備充実にも力をいれ、熱心に大砲を製造しています。
天保10年(1839)11月までに「震天動地」と名付けられた大砲をはじめ14門が完成しましたが、これは口径砲身ともに比較的小さなものでした。
そこで、さらに大きな大砲の製造を計画し、斉昭自身が設計図を描き、天保11年(1840)5月に砲身の長い大砲の鋳造を命じました。
水戸藩は、水戸城外の神崎寺(かみさきじ)の側に四基の炉を設け、銅2千貫、職人120人を準備し製造に着手しましたが、1回目と2回目は、製造に失敗し、3回目の製造となった天保13年(1842)9月にようやく成功しました。
この大砲の成功によって、斉昭はさらに多くの大砲の鋳造を計画しましたが、原料の銅がなくなり、領内は不作が続いて農民が困窮していることもあり、領内の寺院の銅鐘・銅仏を供出させ、それを材料として大砲を鋳造することとなりました。
天保13年12月、領内の寺院の銅仏は石仏に、銅鐘は板木に取り替えるよう命じる命令が出されていますが、この政策によって水戸領内で没収された数は、梵鐘323,半鐘265、鰐口301,濡仏8だそうです。(「水戸市史」より)
こうして、寺院から没収された鐘を材料として神崎鋳造所で製造されたのが、口径一尺二寸の「太極」砲以下75門の大砲でした。
このうち「太極」と名付けられた1門を残し、74門が、嘉永6年6月ぺリー来航直後、幕府に献上され、はるばる水戸から江戸に運ばれました。この事が、「青天を衝け」で描かれたものです。
その時は物珍しくて大勢の見物人が街道脇に並んだそうです。
この献上の際に一つだけ水戸に残された「太極」砲は、現在も水戸市の常磐神社に現存しています。(下写真)この太極砲は、口径36センチ、口辺の厚さ9センチ、砲身127センチあり、斉昭筆の『太極』の銘が浮き彫りになっているそうです。

(許可を得て水戸市役所HPから転載)
斉昭は、大砲の鋳造に力を注ぐほか、いろいろな武器も考案しています。「安神車(あんじんしゃ)」と名付けられた現在風にいえば戦車(もしくは装甲車)ともいうべき武器も斉昭自ら考案したものです。
「安神車」は鉄板で上部と周囲をかこんで、中に人間が一人入り、前後左右に設けられた四角い小窓の中から小銃が発射できるようになっています。これを車に乗せて鎧を着せた牛にひかせ、さらに人が動きを補助しつつ進退できるよう考案されています。
この「安神車」も、水戸東照宮に2基残されています。(下写真)

(許可を得て水戸市役所HPから転載)

