斉昭の海防参与就任(「青天を衝け」17)
「青天を衝け」第3話では、ペリー来航によって、斉昭が復権し、海防参与に命じた通知を受け取る場面が出てきました。そこで、今日は、斉昭の海防参与就任について書いていきます。
嘉永6年(1853)6月9日のペリー来航という重大事件を前にして、幕府は対応に苦慮しました。
この緊急事態のなか、12代将軍家慶は、体調を崩し重篤でした。しかも、世子家祥(のちの13代将軍家定)の能力は疑問視される状態でした。
さらに御三家を眺めると、尾張藩主徳川義勝は名古屋に就藩中で江戸にいませんでした。紀州藩主徳川慶福は、まだ幼少で、国を動かすことなでできませんでした。
こうした状況から、この重大局面で頼りにされたのが徳川斉昭でした。
松平慶永(春嶽)や島津斉彬は、こうした有事には斉昭の力を借りるのが得策だと阿部正弘に斉昭の登用を求めました。
また、幕臣の中でも斉昭を望む声があり、14日には、目付が連署して斉昭の海防参与起用を建議しています。(「徳川斉昭」〈永井博著 山川出版社〉より)

こうした声を背景に、阿部正弘も、川路聖謨と筒井正憲を駒込の水戸藩中屋敷に向かわせ、斉昭の意見を聞かせています。
将軍家慶は、病が重くなるなか、阿部正弘を呼んで、「最近のできごとは国家の深慮であるが、私は不幸にも病気となってしまって、対応することができない、これらの大事を議論できるのは水戸前中納言のみである。前中納言に私の命令を伝えて、参画させ、協同して国難にあたるように」と命じたと「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著)に書かれています。「青天を衝け」で描かれた場面とほとんど同じです。
そして、6月22日、将軍家慶は死去しました。享年61歳でした。
将軍薨去という事態を受け、6月30日、阿部正弘は、斉昭を訪ね、幕政に参画するよう要請しました。
そして、7月3日、斉昭は海防参与に任命され、「海岸防御筋の儀につき、この節御用もこれある間、以来しばらくのうち、隔日日程にも御登城なさるべし」とされ、隔日に登城するよう命じられました。
また、「この際、隠居身分なので、大手門からではなく平川門から入り、「御風呂屋ロ」より「御三卿の控所」へ行くようにということが指示されている。隠居ということを理由にして、将軍家の身内として遇されている御三卿に準じ、中奥(なかおく)へ直接入ることが認められた。」(「徳川斉昭」永井博著 山川出版社)ようです
この斉昭の幕政参画に伴い、斉昭の隠居謹慎に連座して蟄居させられていた戸田忠敞(ただあきら)・藤田東湖は、蟄居が許され、江戸藩邸に詰めるよう命じられました。藤田東湖が水戸から江戸に戻った場面は「青天を衝け」でも描かれていましたね。
さて、海防参与に任命された斉昭は、8日は、10ヶ条の国防策を献策をしています。さらに10日は10ヶ条のうち5ヶ条を詳しく説明した検索を行っています。この7月の建言が「十条五事の建言」とよばれています。そして、8月3日には13ヶ条の献策をおこなっています。こちらも「十三条の建言」とよばれています。
この斉昭の7月の「十条五事の建言」と8月の「十三条の建言」を「両方を合わして、『海防愚存』という書物にして伝写、流布した」(「水戸市史」より)そうです。
このように斉昭は、積極的に国防策を献策しています。
しかし、「徳川斉昭」(永井博著 山川出版社)によれば、こうした策は幕府には受け入れがたいもので、幕府との協議は難航し、斉昭が辞職の意向を示す場面もあったそうです。

