栄一と岡部の代官(「青天を衝け」18)
今日の「青天を衝け」のタイトルは「栄一怒る」ですが、何について怒ったのかというと「岡部藩の代官の理不尽な態度」に怒ったということでした。
下写真は深谷市岡部にある「高島秋帆幽囚の地」記念碑ですが、この辺り一帯に岡部藩の陣屋がありました。

中の家(なかんち)や東の家(ひがしんち)は、岡部藩の御用達となっていて、先祖の法要・若殿様の元服・お姫様の嫁入りなど、ことあるごとに御用金が領内に命じられ、岡部藩に用立てていました。中の家(なかんち)が用立てた総額は、栄一によれば「自分が十六、七歳の時までに、たびたび調達した金が二千両余り」(「雨夜譚」より)になっていました。
そうした中で、栄一が17歳の時に、岡部の陣屋に呼ばれた際に、父が行くことができなくて栄一が代理で出かけ、東の家(ひがしんち)が千両、中の家(なかんち)が五百両の御用金を代官から命じられた際、栄一は、代理で来たのですぐに応諾できないと答えたところ、代官からひどく罵倒されました。
ここが、本日の「青天を衝け」で描かれていました。
この時のことは、栄一について書いた多くの本で、栄一の生き方・考え方に大きな影響を与えた重要な出来事と位置付けられています。
その時の様子は、栄一の自伝「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」に詳しく書いてあります。
「青天を衝け」では、翌日、雨の中で五百両を届けるシーンがありましたが、そこを除けば、ほとんど「雨夜譚(がたり)」に書かれている通りですので、その一節を書いておきます。長くなりますが、お読みください。
「自分は、ただ御用の趣を聞いて来いと父からいい付けられたまでだから、御用金の高は畏(かしこま)りましたが、一応父に申し聞けて、さらに御受に罷り出ますといった。スルトこの代官なかなか如才ない人で、そのうえ人を軽蔑するような風の人だから、嘲弄半分に、貴様は幾歳になるか、ヘイ私は十七歳でござります、十七にもなって居るなら、モウ女郎でも買うであろう、シテ見れば、三百両や五百両は何でもないこと、殊に御用を達せば、追々身柄も好くなり、世間に対して名目にもなることだ、父に申し聞けるなどと、ソンナわからぬことはない、その方の身代で五百両ぐらいはなんでもないはずだ、一旦帰ってまた来るというような、緩慢な事は承知せぬ、万一、父が不承知だというなら、何とでもこの方から分疏(いいわけ)をするから、直に承知したという挨拶をしろ、と切迫に強いられた。なれども、自分は、父からただ御用を伺って来いと申し付けられたばかりだから、はなはだ恐れ入る儀であるが、今ここで直に御請をすることは出来ませぬ、委細承って帰ったうえ、その趣を父に申し聞けて、御請をいたすということならば、さらに出て申し上げましよう、イヤそんな訳の分らぬことはない、貴様はつまらぬ男だ、とヒドク代官に、叱られたり嘲弄されたりしたけれども、自分は是非ともそう願いますといって、岡部の陣屋を出た」
以上が「雨夜譚(がたり)」に書いてある一部分です。さらに、「雨夜譚(がたり)」では、家に帰ってからの市郎右衛門とのやりとりまで書いてあります。
この事件は、栄一のその後の人生に大きな影響を与えた事件でした。
栄一自身が、「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」でも詳しく語っていますが、長文となりますので、「青淵回顧録」の中の一部分だけを引用します。栄一は「青淵回顧録」の中で次のように語っています。
「ほとんど奴隷扱いにも等しい実際の待遇を受けて、私は心中憤遘(ふんまん)に堪へなかった。私は多少でも学問をして居り、また、世間の話を聞きかぢっているだけに、それも畢竟(ひっきょう)幕府の政治向きがよろしくないのだと考え、明確ではないがこの時から幕府の政治に慊(あきた)らぬ観念を抱くようになった。加ふるに陣屋の役人に加えられた侮蔑に対する憤慨(ふんがい)の念は心魂(しんこん)に徹して、どうしても忘れることができない。」
そして、多くの本も、この出来事が、その後の栄一の生き方や考え方に大きな影響を与えたと指摘しています。順不同で、それらを紹介しておきます。
①岩波文庫「渋沢栄一伝」(幸田露伴著)p30
「質素倹約な合理的生活を重んじていた家庭に育った栄一である。不合理的強要の承諾を余儀なくされたる時代の弊風に対して何で何等の批評が胸中に鬱蓄されずにあろう」
②文春文庫「渋沢栄一」(鹿島茂著)p52
「(青淵回顧録を引用したうえで)これを読むと、栄一が腹を立てた理由も、またそこから、幕府の政治がいけないという結論を引き出した経過も、わかりすぎるぐらいよくわかる。幕末の討幕運動というのはこうしたところから起こってきたのだろうと想像できる。」
③文春新書「渋沢家三代」(佐野眞一著)p28
「(雨夜譚の一節を引用したうえで)栄一がここでいっていることをかみくだいていえば、こういうことである。
そもそも人間の尊卑や賢愚は徳不徳に因るはずだ。それにもかかわらず、あまり教養かあると思えないあの代官があんなに威張るのは、ただ侍だという理由だけである。武士と百姓になぜそんな差別があるのだろう。そんな階級制度は間違っている。それは結局、いまの幕政が腐っているからだ。栄一の胸中に蟠った不合理の耐えがたい念慮は、それから数年後に、高崎城乗っとりというクーデター計画に凝縮し、やがて幕末維新の激流のなかにとびこむ季節を迎えることになる。」
④岩波新書「渋沢栄一 社会企業家の先駆者」(島田昌和著)p11
「身分制社会のさまざまな矛盾に対して怒りを爆発させ、変革への行動に邁進する発火点となった。」「まさにターニングポイントであった」。
⑤ちくま新書「渋沢栄一」(木村昌人著)p36
「この代官の横柄で人を見下すような態度に渋沢は憤った。この役人のように知恵も分別もないのに、ただ武士であるからという理由だけで農民を軽蔑するのは納得できない。何としてでも農民を罷めたいと痛感したという。この義憤は、官尊民卑の打破を掲げて、「民」の力を強化しようとするきっかけとなった。」
⑥人物叢書「渋沢栄一」(土屋喬雄著)p25
「著者はここで当時栄一の胸中にわだかまっていた思想を分析してみたい。
一言をもってすれば、それは封建制度に対する反抗思想である。(中略)したがって、核心において自由民権の思想である。わが国の自由民権思想は、明治初年において先進諸国のそれの影響を受けて特に盛んになったものであるが、当時の栄一は、西洋思想の影響を受けることなくして、この民権思想へ到達したのである。いわば彼は自由民権思想の日本に想の先駆者おける先駆者の一人であった。」
このように多くの本が、時には「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」を引用しながら、栄一に大きな影響を与えた重大な事件だったと説明しています。

