川路聖謨(「青天を衝け」22)
「青天を衝け」には、平田満が演じる川路聖謨がしばしば登場します。そこで、今日は、川路聖謨について書いてみます。
川路聖謨は、享和元年(1801)豊後国日田(現・大分県日田市)の日田代官の手代内藤歳由の長男として生まれました。
父・内藤歳由は江戸に出て御家人株を入手し、聖謨は12歳で小普請組の川路三佐衛門光房の養子となりました。文化14年(1817)、17歳で勘定所の筆算吟味に及第し、翌年の文政元年(1818)、勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用されました。
その後、勘定奉行所の支配勘定を経て御勘定に昇進し、寺社奉行吟味物調役として寺社奉行所に出向しました。この時出石藩仙石家の御家騒動である仙石騒動の解決に手腕を発揮し、白縮緬五匹を拝領しています。
天保4年(1833)旗本になります。この年、藤田東湖が初めて、川路聖謨を訪ねています。「川路聖謨之生涯」p23によると、藤田東湖は「葵巳の歳,天保4年、余、始めて、これを船河原橋の宅に訪ひ、一見如故、其人物の凡(ぼん)ならざるを知れり」と書いているそうです。
これ以降、藤田東湖とは親しく付き合ううようになり、自然と水戸の徳川斉昭の耳にも聖謨のことが入り、斉昭から揮毫を拝領することもあったようです。

また、この当時、川路聖謨が親交していた人々には、江川英龍、岡本花亭(平岡円四郎の父)、矢部定謙、羽倉外記、渡辺崋山などあり、さらに間宮林蔵とも知り合っています。
平岡円四郎は文政5年(1822)生まれですので、円四郎が10歳のころから、父親岡本花亭と知り合いだったんですね。
天保6年(1835)、勘定吟味役に昇格しました。この昇進は老中の大久保忠真の意向によります。
天保11年(1840)佐渡奉行となり、翌年、小普請奉行さらに普請奉行と栄進し、老中水野忠邦による天保の改革に参画しました。
しかし、水野忠邦の天保の改革が失敗し失脚すると、川路聖謨も弘化3年(1846)奈良奉行に左遷されました。
これについて「川路聖謨之生涯」では、水野忠邦派とみなされた川路聖謨に対する弾劾の声が強いなか、老中阿部正弘はその意見を斥けつつも、批判の矛先をかわすため奈良奉行に任命したとしています。(p86~87)
奈良奉行として5年以上、奈良の治世に尽力し、佐保川には桜の木を植える施策も実施しました。その桜は、現在も「川路桜」と呼ばれていて、春には見事な花を咲かせているそうです。
嘉永4年(1851)大坂町奉行に転任となり、そこを1年ほど勤め、嘉永5年(1852年)、公事方勘定奉行に就任し、中央に復帰しました。
「青天を衝け」第4話で描かれていたのは、嘉永6年から嘉永7年にかけての話ですので、川路聖謨が勘定奉行になってからの話です。
水戸の徳川斉昭は、川路聖謨のことをよく知っていて親しみを感じていたようです。これは、藤田東湖が取り持ったものです。
そのため、嘉永6年(1653)6月14日、阿部正弘の指示により川路聖謨は筒井正憲とともに水戸藩駒込屋敷にいる斉昭を訪ね、会談は夜間におよびましたが、帰る際に、斉昭は、自らの佩刀を川路聖謨に与え、脇差を筒井正憲に与えました。「これはけだし、親信の意を表せしことなるべきか」と「川路聖謨之生涯」p253.254に書いてあります。
川路聖謨は、これ以降も、ロシアの遣日使節のプチャーチンとの交渉、一橋慶喜の擁立運動、日米修好通商条約の勅許問題等で活躍しましたので、今後の「青天を衝け」でも活躍してくれるのだろうと思います。

