慶喜のエピソードあれこれ(「青天を衝け」23)
3月10日に書いた「徳川慶喜と平岡円四郎」で、平岡円四郎が給仕の仕方を知らないので慶喜が教えてあげたという話は史実で、「徳川慶喜公伝」にも書いてあると紹介しましたが、「徳川慶喜公伝」のどこに書いてあるのか教えて欲しいという問い合わせをいただきました。
確かに、「徳川慶喜公伝」は、平凡社の東洋文庫版でも4冊ありますので、どこに書いてあるのか探すのは大変だと思います。

慶喜が平岡円四郎に給仕の仕方を教えたという話は、ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」4(上写真)第35章「逸事」の中に載っています。書き出してみると次のようになります。
《平岡円四郎の奉仕》
「小性の職掌は、食膳の給仕を始めとし、髪結うすべまでも心得べきものなるに、平岡円四郎の始めて近侍を拝命せし時は、何一つ慣れ得ずして、頗(すこぶ)る疎野を極めたれば、公御覧じて、給仕の仕方は斯(か)くするものぞと、自身に杓子(しゃくし)を執り椀を持ち、その仕(し)ぶりを見せて細かに教へ給ひければ、漸(ようや)く仕慣れたるが、円四郎はその瑣細(ささい)なる事にも注意の厚きと、末たのもしき度量を備へ給うとに感じ、心を傾けて奉仕するに至れりとぞ。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p294)
これを読むと慶喜が給仕の仕方を丁寧に教えたことが書かれています。
また、「諍臣(そうしん)」を慶喜自ら斉昭に求めたことも次のように書いてあります。
《直言の臣召抱》
「嘉永六年の事なりき、烈公に書を上りて、「某(それがし)が家中には、某(それがし)が過失は勿論、 行状につきても、訓戒を申しくるる者なければ、何とぞ右ようの者両三輩を附け給わりたし」と申請(もうしこ)える事あり。平岡円四郎が藤田東湖の薦(すすめ)によりて烈公より附属せしめられしは、此を喜び、阿諛(あゆ)の言をば退け給へるが故に、一橋の家中は言ふに及ばず、後年将軍職を襲(つ)ぎ給ひても、公の左右に侍りし者、誰一人として阿諛(あゆ)の臣なかりき。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p293・294)
さらに、慶喜が幼い頃、寝る際に、寝相を整えるため、寝床の両脇に刀の刃(やいば)を上に向けておくというシーンが「青天を衝け」の第1話にありました。
そのことについても第35章に書いてあります。
《枕側の剃刀(かみそり)》
「近侍の人々も烈公の仰せを承りて、公の枕の両側に剃刀の刃を向けて立て置き、「これ御覧あれ、この通りに刃を向けて候へば、御寝相の悪くて漫(みだり)に寝返りなどなさるれば、忽(たちま)ちに御頭にも疵を被(こうむ)らせ給ふべきぞ、唯々この剃刀の立ちたる間にて静に寝返りもなさせ給へ、必ず負傷どもせさせ給ふな」と教へ戒むるにぞ、公は幼心にも、いかでかさる事あるべき、我睡(ねむ)らば彼等は必ず之を取除けんとは推知(すいち)し給ひしかども、さすがに刃の間に枕する事の心地よからねば、自然に寝相も正しくならせ給へり(昔夢会筆記)。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p286)
これを読むと、寝床の両脇においてあったのは、刀ではなく剃刀(かみそり)だったようですね。しかも、寝床の脇ではなく枕の両側ですので、うっかりすると顔を傷つけてしまうような状況だったんですね。
また、同じ第1話の上のシーンで右腕を下にして寝るシーンがありました。これも斉昭の教えです。詳しいことは「徳川慶喜公伝」に次のように書いてあります。
《武士の利腕》
「近侍の人々教へ申して日く、「凡そ武士は利腕(キキウデ)といふ事あり、利腕とは右の手を申すなり、されば武士たる者は、片寝するにも必ず右を下にすべきなり、若し左を下にして熟睡したらん時に、敵不意に襲ひ来りて、右の利腕を執らんには如何すべき、此事よくよく御心得ありて、かりそめにも右を上にして寝させ給ふな」とありければ、幼心にも、実にもっともなる教訓なりと思召し、その如く心懸けさせ給ひければ、御老後までも常の慣習になりて、右下の片寝のみせさせ給へり(昔夢会筆記)。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p286)
ご興味がわいた方は、機会をみつけて、ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」を読んでみてください。

