栄一の迷信打破(青天を衝け24)
「青天を衝け」第5回では、栄一の姉なかが気鬱になり、それは無縁仏の祟りだという祈祷師を懲らしめるという話が時間をかけて丁寧に描かれました。栄一が見事に祈祷師をやっつけるので喝采を叫んだ方も多かったのではないでしょうか。そして、あまりにも見事なので、このストーリーは創作されたものだと思った人も多かったのではないでしょうか。しかし、実は、この話は実話に基づくものです。
栄一は、自伝「雨夜譚(がたり)」の中で凡そ次のように語っています。
姉が病気になったため、父が姉を連れて療養に出かけました。その留守に、東の家(ひがしんち)の叔母が、修験者を連れてきて、祟りを除くため祈禱を始めました。
中座(ちゅうざ)と言う神の言葉を伝える女性をたてて、神の言葉を聞くと、この家には金神(こんじん)と井戸の神、さらに無縁仏がたたっていると言います。
祈禱をすすめた東の家(ひがしんち)の叔母は、したり顔して、「昔、伊勢参宮から戻らない人がいると聞いたことがあるがそれに違いないので、それでは、祟りを除くにはどうすればよいか」と聞くと、祠を建てて祀るようにとのことでした。
これを聞いていた栄一が、「その無縁仏は何年ほど前のことか」と聞くと、中座は「5.60年前のこと」と答えました。さらに、栄一は、「それでは年号はいつか」と聞くと天保13年といいました。
これを聞いて、「天保13年は23年前のことで、こんな間違いをする神様は信用できない」といって、祈祷師たちをやりこめました。
だいたい以上のようですが、後記の「雨夜譚」を読んでいただくと一目瞭然ですが、「青天を衝け」の中で描かれていた祈祷師をやり込める話は、ほぼ「雨夜譚」の通りです。違うところといえば、市郎右衛門と姉が祈禱の最中に戻ってきたことぐらいです。
この話について、栄一は、「雨夜譚」では、非常に詳しく語っています。最下段に、参考に書いておきますので、長くなりますが、ぜひご覧ください。
また、「青淵百話」(渋沢栄一著)には、「余が十五才の時であった。自分には一人の姉が脳を患って発狂し二十才といふ娘盛りでありながら、婦人にあるまじき暴言暴行をあえてし、狂態がはなはだ強かったので、両親も余もこれを非常に心配した。とにかく女のことであるから、他の男にその世話はさせられぬ。余は心狂へる姉の後に附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能く世話をしてやった」と書いています。
「青天を衝け」の姉の後を追って見守るシーンは、「青淵百話」の通りですね。
「青天を衝け」第5回では、こうした栄一の思い出をベースにして、一つのストーリーに仕上げてあり、見事な出来栄えだと感じました。
栄一が育った時代は、多くの人々が迷信を信じる時代でした。そんな時代で、迷信をまったく信じない栄一の合理的な考えに驚かされましたが、人物叢書「渋沢栄一」(土橋喬雄著)にも、「そうした時代においてよく迷信から脱却し、しかもこれに対して強い嫌悪の情をもち、これを容易に打ち砕いた栄一の頭脳は驚くべき冷静な、理智的な、合理的なものであった。」と書かかれているのを読んで「やはりそうか」と思いました。

※参考 岩波文庫「雨夜譚」p23~25
読みやすいように、管理者の判断で段落をつけ、漢字をかなに変えてあります。
「迷信を打破 自分には姉が一人あるが、その姉が病気のために、両親はもちろん自分もおおいに心配もし、困難もしました、ある時、親戚の人から、この病気は家に祟りのあるためだから、祈祷をするがよいといふ勧誘をいれて、父が姉を連れて、転地保養かたがた上野(こうずけ)の室田といふところへ行かれたことがある。この室田といふは、有名の大滝があるところであります。
さてその留守中に家にあるといふ祟りを攘(はら)うために、遠加美講といふものを招いて、御祈祷するということで、両三人の修験者が来て、その用意にかかったが、中坐(ちゅうざ)と唱へる者が必要なので、その役には、近い頃、家に雇ひ入れた飯たき女を立てることになった。
しかして室内には注連(しめ)を張り、御幣などを立てて、厳(おごそ)かに飾付をし、中坐の女は目を隠し御幣を持て端坐して居る、その前で修験者は色々の呪文を唱へ、列坐の講中信者などは、大勢して異口同調に遠加美といふ経文体のものを高声に唱へると、中坐の女始めの程は眠っている様であったが、いつか知らずに、持て居る御幣を振りたてるのを見て、修験者は直ちに中坐の目隠しを取って、その前に平身低頭して、何れの神様が御臨降であるか、御告げを蒙りたいなどといって、それから当家の病人について、何等の祟りがありますか、何卒御知らせ下さいと願った。
すると中坐の飯たき女めが、いかにも真面目になって、この家には金神(こんじん)と井戸の神が祟る、またこの家には無縁仏があつて、それが祟りをするのだ、とさも横柄に言ひ放った。
それを聞いた人々の中でも、別して初めに祈祷を勧誘した宗助の母親は、得たり顔になって、それ御覧、神様の御告げは確かなものだ、なるほど老人の話しにいつの頃か、この家から伊勢参宮に出立して、それ限り帰宅せぬ人がある、定めし途中で病死したのであろうということを聞て居たが、今お告げの無縁仏の祟りといふのは果してこの話しの人に相違あるまい、どうも神様は明らかなものだ、実にありがたい、しかしてこの祟りを清めるには、どうしたらよかろうという所から、また中坐に伺って見ると、それは祠を建立して、祀りをするがよいといった。
全体、自分は最初から、かような事はせぬがよいと言ったれども、弱年者のいうことだから採用しられなかったが、いよいよ祈祷をするについては、何か疑わしき処もあったらばと思って、始終注目して居たが、今無縁仏といふについて、その無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありましょうか、祠を建るにも、碑を建るにも、その時が知れなければ困りますといったら、修験者は、また中坐に伺った。
すると中坐は凡そ5.60年以前であるというから、、また押返して、5.60年以前ならば何という年号の頃でありますかと尋ねたら、中坐は天保3年の頃であるといった。
ところが天保3年というと今から23年前の事であるから、そこで自分は修験者に向って、只今御聞の通り、無縁仏の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知らぬといふ訳はない筈の事だ、こういう間違があるうようでは、まるで信仰も何も出来るものじやない、果して霊妙に通ずる神様なら、年号位は立派に御分りにならねばならぬ、然るにこの見やすき年号すらも誤る程では、しょせん取るに足らぬものであろう、と詰問を放った処が、宗助の母親は横合からさような事をいうと、神罰が当るという一言を以て、自分の言葉を遮りましたけれども、明白な道理で、誰にも能く分った話しだから、自然と満坐の人々も興をさまして、修験者の顔を見詰めた。
修験者も間が悪くなったと見えて、これは何でも野狐が来たのであろう言い抜けた、野狐のいうことならなおさら祠を建てる、祀をするということは不用だというので、つまり何事もせずに止めることになったから、その修験者などは、自分の顔を見て、さてさて悪い少年だ、と言わんばかりの顔付でにらみました。」
以上です。最後までお読みいただきありがとうございました。

