川路聖謨と安政東海地震(「青天を衝け」25)
「青天を衝け」は、嘉永7年(1854)から安政年間に話が進んでいます。
嘉永7年から安政2年(1855)にかけて、連続して巨大地震が日本を襲いました。※嘉永7年11月27日に元号が安政に改元されました。
まず、嘉永7年11月4日に安政東海地震がおき、翌日の11月5日に安政南海地震が連続しておきました。そして、翌安政2年(1855)に安政江戸地震が発生しました。
「晴天を衝け」で、ロシアの船が転覆し川路聖謨が救助の指揮をとっている地震として描かれていたのが安政東海地震で、藤田東湖が圧死したのが安政江戸地震です。
この地震について2回にわけて説明します。今日は、先におきた安政東海地震について書いていきます。
安政東海地震は、嘉永7年11月4日の午前9時すぎにおきた熊野沖から遠州沖・駿河湾内までの広い範囲を震源地とするマグニチュード8.4の巨大地震です。安政東海地震が起きた後の11月27日に改元され元号が嘉永から安政になっています。そのため、嘉永年間に起きた地震ですが、一般的に安政東海地震と呼ばれています。
安政東海地震の被害は関東から近畿にまで及び、とくに伊豆半島から伊勢湾にかけての沿岸部が甚大な被害をこうむりました。さらに被害を拡大させたのが大津波で、大津波は房総から土佐までの沿岸を襲い、津波の高さは、駿河湾から遠州灘の沿岸で4~7メートルに達しました。伊豆の下田も最大7メートルの津波により、840戸が流失、122人の死者を数えました。
安政東海地震により倒壊または焼失した家屋は、全体で約3万戸に達し、 2000~3000人の死者が出たと推測されています。(岩波新書「地震と噴火の日本史」伊藤和明著より)
また、「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書平成17年3月」によれば、津波は、鳥羽市国崎(くざき)で21.1m、静岡県南伊豆町で16.5mにも達したと推測されています。( 広報「ぼうさい」(No.26)2005年3月号より)
安政東海地震が発生した時、川路聖謨もプチャーチンとの交渉のため、下田に滞在していました。下田も大津波が襲ったため、川路聖謨は宿泊していた泰平寺近くの大安寺山に駆け上がり、無事難を逃れました。
日記には次のように書かれています。
「四日晴、(前略)食事中、五ッ時過、大地震有之、壁破候間、表の広場へいで候、かかる地震は、生れて、はじめてのことなり。寺の石塔、そのほか燈籠等みな倒れたり。しばらくして、津浪なりとて市中大騷なり。(中略)六七町ばかり迯(にげ)て、大安寺山へ四分通り上り、(後略)」
大安寺山の中腹まで逃げた川路聖謨ですが、津波がさらに押し寄せてきたため、命からがら、さらに上に上りました。その切迫した状況も日記に「おもわず茨(いばら)をわけ、木を伝いて、道なき山を、ひら上りに上りたり。絶頂へ参りみれば、手足をかき破りて、血の出ぬざいふものなし。」(「川路聖謨之生涯」p360)と記しています。
一方、ロシアのプチャーチンが乗艦した軍艦ディアナ号も下田に停泊しており、大津波に襲われ、30分間に42回転もしています。そのため、ディアナ号は、沈没はなんとか免れましたが、大破しました。
大破したディアナ号の修理を行うこととなりましたが、下田は適切でないというロシア側の意見により、伊豆半島西海岸の戸田(へだ)で修理することになりました。
ディアナ号は、安政元年11月26日に下田港を出港し、戸田(へだ)に曳航されていきましたが、折からの悪天候のため駿河湾を漂流し、12月1日、宮島村(現富士市)沖で沈没しました。
「川路聖謨之生涯」に記載されている川路聖謨の日記には次のように書かれています。
「12月朔日(1日)、夜四半時、江川太郎左衛門より急状来る。ロシア船、原と吉原の間にて、破船に及ぶ。異人、胴を縄にてくくり 一人づつ水中へ飛び込み候を、大縄にて助命いたし候旨申し来る(下略)」
ここに書かれているように、ディアナ号が沈没した時には、川路聖謨は、その現場にいませんでしたが、地元の住民は献身的な救助活動を行い、乗員全員が救助されました。( 沈没したディアナ号の錨一基が昭和29年に引き上げられ、現在、戸田造船郷土資料博物館の入り口脇に展示されています。下写真)

船を失なって帰国できなくなったロシアの乗組員のために、川路聖謨らの尽力により戸田(へだ)で新しい帆船を建造することになり、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が指揮をとりました。
この間も川路聖謨ら日本側代表団とプチャーチンの交渉は継続し、12月21日、「日露和親条約」が締結されました。
新しい船は着工からおよそ3ヶ月後の安政3年(1856)3月10日に完成しました。プチャーチンは、完成した船を「戸田(へだ)号」と命名し、安政3年(1856)3月22日にロシアに向けて戸田(へだ)を出港し、アムール川をさかのぼり、シベリアを越えて半年後無事モスクワに帰りつきました。
プチャーチンやロシアの乗組員たちは、遭難時に親切にもてなしてくれた戸田(へだ)の人々への感謝の気持ちを忘れることはありませんでした。
その後もプチャーチンは日本に好意を持ち続け、サンクトペテルブルクに滞在する日本人留学生の庇護やロシアにおける日本公使館の手助けなど、日本に大きな貢献をしました。こうしたプチャーチンの好意に対して、日本から勲一等旭日大綬章が贈られることになりました。この叙勲に対しプチャーチンは、駐露公使柳原前光に礼状を送り、その中で、特にディアナ号が沈没した後、新船を建造するにあたって懇切な援助を得ることができたことに深く感謝しているそうです。⇐「外務省外交史料館特別展示「日露関係のあゆみ:1855-1916」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_russia_2005/2_2.html)のプチャーチンに関する内容の一部を要約
プチャーチンは、明治16年(1883)にパリでなくなりましたが、その4年後に娘のオルガ・プチャーチンが戸田(へだ)を訪ね、感謝の意を伝えています。
また、戸田(現沼津市戸田)には、戸田造船郷土資料博物館がありますが、この建設にあたっては当時のソ連政府から500万円の寄付がありました。
下写真が戸田造船郷土資料博物館です。3年前の春に訪問した際の写真です。

その後、平成17年4月16日、下田で、「日露修好150周年記念式典」が開催されました。その席には、川路聖謨とプチャーチンの子孫が招かれていて、小泉首相の挨拶の中で「本日の記念式典には、当時日露両国を代表して交渉に当たった方の御子孫の方々にもご列席頂いております。日本側からは川路紳治さん、ロシア側からはマリーナ・プチャーチンさんとご子息のニコライさんのお二人に出席頂いています。」と紹介されています。⇐「外務省日露修好150周年式典小泉総理ご挨拶」(https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/17/ekoi_0416.html)による。
ちなみに、川路聖謨の子孫川路紳治氏は、物理学者で学習院大学名誉教授です。

