藤田東湖と安政江戸地震(「青天を衝け」26)
「青天を衝け」第5回では、亡くなった藤田東湖を抱きかかえて斉昭が号泣するシーンが感動的でした。
今日は、藤田東湖の命を奪った安政江戸地震について書いてみます。
安政江戸地震は、安政2年(1855)10月2日午後10時ごろに発生した直下型の大地震です。震源は東京湾北部から現在の江東区付近、』規模はマグニチュード7程度と推定され、大名小路(現在、皇居外苑・丸の内周辺)、本所、深川、小石川、浅草などは震度6弱から6強、山手は震度5と推定されています。
この地震により、江戸で特に被害が大きかったのは、大名小路、本所、深川といった低地の埋め立て地域でした、さらに、小石川、浅草などでも大きな被害が出ています。
大名小路は、老中たち幕閣の屋敷が立ち並んでいることから、老中阿部正弘(福山藩)の屋敷でも大きな被害にあいました。
さらに、小石川にある水戸藩上屋敷では大きな被害を受けました。
正確なデータはないものの、死者は、武士・町人を合わせて7000人と推定されています。(以上「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成16年3月」より)
小石川にある水戸藩上屋敷の被害は甚大でした。前記専門調査会報告書によれば、「屋敷が残らず崩れ、長屋も38棟つぶれた」そうです。
また、「水戸市史」によれば、即死46人、負傷84人となっています。
多くの死者が出た中で、とりわけ2人の重要人物が命を落としました。戸田忠敞(忠太夫)と藤田東湖(誠之進)です。
この2人は、徳川斉昭が藩主に就任する時から支援し、斉昭のもとで藩政改革を成功させ、復権した斉昭を支えてきた人物で、「水戸の両田(りょうでん)」と称される斉昭の強力なブレーンでした。
嘉永6年(1853)、斉昭から、戸田忠敞(ただあきら)は忠大夫という名前を賜り、藤田東湖は誠之進という名前を賜りました。これは、両人協力して斉昭を補佐して忠誠を尽くすようにという意味がありました。
そして、戸田忠敞は水戸藩の執政に就任し、藤田東湖は、側用人に就任し、再び斉昭を補佐していました。
「青天を衝け」では、藤田東湖が斉昭を諫めるシーンがありましたが、東湖はそうした役割も負っていたようです。「徳川斉昭」(永井博著)p153には「ともすれば暴走しがちな斉昭の行動を抑える存在であった。」と書いてあります。
藤田東湖は、安政江戸地震の際、母をかばって自らは圧死したと言われていて、小石川後楽園には、「藤田東湖先生護母致命之処」という石碑が建立されています。(下写真)

この碑についての文京区教育委員会の説明には、「幕末の水戸藩士で勤王家として知られた藤田東湖(1806~1855)は、水戸藩江戸上屋敷で安政の大地震に遭った。その際母を助けて外に出たが、火鉢の火を心配した母が屋内に引き返したため救い出そうとしたところ鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。」と書いてあります。
中公新書「地震の日本史」(寒川旭著)にも、「母親とともに一旦は外に逃げ出が、火鉢の火を消し忘れた母親が屋敷内に戻ろうとしたため、東湖もあわてて引き返し、崩れ落ちた天井の梁により命を落した。享年50歳」と書いてあります。(p195)
私は、小石川後楽園の案内をしたこともあるので、東湖の最期は、私もこの通りなんだと思っていました。ところが、これと違う説もあるようです。
ちくま学芸文庫「安政江戸地震」で野口武彦氏は、老母をかばい助けたあと圧死したという絵に描いたような美談に仕立ててある話は事実ではなかったようだと書いていて、東湖をよく知っている松代藩真田家家臣の山寺源太夫の書状から「東湖はほんとうは姿のみえない老母を案じ、その場でぐずぐずためらっていたところを押し潰されたのに間違いない」としています。(p106~107)
また、「水戸市史」には、駒込住まいの江戸御文庫役久米幹文という武士の書状書抜きを引用して、東湖の最期の様子を「藤田東湖は老母を背負い転んだところ、老母は先のほうに転んだので無事である。藤田殿は背中に大物が落ちてきて即死である。」と書いてあります。
どの説を支持するかは読者の皆さんのご判断ですが、いくつかの説があるということを書いておきます。
なお、東湖は、水戸藩の一般藩士は定府(江戸に住むこと)という名残で、藩邸内の屋敷に母親と一緒に江戸屋敷に住んでいました。(「天下の副将軍」p173より)
斉昭自身は、藩主の慶篤ともに小石川後楽園に逃げて無事でした(「安政江戸地震」)が、「水戸の両田」を呼ばれた戸田忠敞と藤田東湖を失った斉昭の痛手は非常に大きなものがありました。
「青天を衝け」では、東湖を抱きながら号泣する斉昭の姿が描かれていましたが、斉昭の気持ちは、まさにあのシーン通りだったのではないでしょうか。
その後、「水戸の両田」を失った斉昭は失策が多くなったようです。
越前藩主松平慶永(春嶽)は、『逸事史補』の中で「水府老公(斉昭)の失策が多くなって、万事不都合を生じ、幕府より譴責をうけるなどのことは、藤田東湖・戸田忠太夫両人が、卯年(安政2年)大地震で圧死して以来である。この二人の輔翼は別段のことであったという」と回想しています。(岡村青著「水戸藩」より)
こうして、東湖なき後の水戸藩は混迷を深めることになり、多くの過激尊攘派の突出事件を起こすことになります。それらは今後の「「青天を衝け」の中で描かれるものと思います。

