安政江戸地震で藤田東湖が圧死したという話を既に書きました。
それでは、安政江戸地震の際に慶喜はどうしたかということを今日は書こうと思います。
安政江戸地震の時、慶喜がどうしたかということについては、「昔夢会筆記」の中に「安政の地震の事」として書かれています。
なお、「昔夢会筆記」は、栄一が「徳川慶喜公伝」を書くにあたって、徳川慶喜を招いてその当時のことの疑問を尋ねる座談会(それが「昔夢会」です)を催しましたが、その座談会の筆記録が「昔夢会筆記」です。

それによると、安政江戸地震が起きたのは、午後10時ごろですが、その頃には慶喜は寝室に入って、まさに寝ようとするところでした。
その時、にわかに天地が震動して、壁が壊れて、建物も倒壊しそうな揺れであったため、急いで外に出ようとしましたが、家が傾き戸を開けることができなかったので、思い切り力を込めて押しはずして、雨戸と一緒に転び落ちて、走って築山に避けると、築山がすぐに崩壊して、大きな石燈籠が音をたてて倒れるなどして、大変危険でした。
庭続きに屋敷の奥向きに向かって、母親(ここでの母は、慶喜の実母ではなく、一橋家の徳信院だと思います。)たちは、築山のほうに逃げていたので、その無事を喜び、馬場にある四阿(あずまや)に誘導しました。
その後、慶喜自身は厩に駆付け、馬丁たちを励まして、馬に鞍を置かせて、そのまま馬に鞭をいれて将軍の様子を確認するため江戸城に向いました。それに従う者わずかに数人足らずだったと言います。
慶喜が、大地震という危急の中でも、俊敏に行動した様子がよく書かれています。なお、「青天を衝け」では、水戸家に行ったことになっていましたが、「昔夢会筆記」では将軍の安否を確認するために江戸城に向かっています。
「青天を衝け」で、慶喜が御飯を食べる際に、農人形に御飯を供えるシーンがありましたが、「昔夢会筆記」には、農人形のことにもついて書いてあります。
慶喜によれば、農人形は斉昭の考えで、子供たち全員に与えられたといいます。
百姓が、裏返した笠をもっていて、それが膳の上に載せたあり、ご飯を食べる前に五・六粒ほどとって、その笠のうえに載せてから、ご飯を食べたといいます。
本物の農人形は、青銅製のもので、一つ一つに斉昭の署名がされていたそうです。
農人形は、現在は茨城で木彫りの民芸品としても伝承されれているそうです。下画像は、「観光いばらき」から転載させていただきました。


