栄一と漢詩「内山峡」①(「青天を衝け」31)
「青天を衝け」第7回では、この大河ドラマのタイトル「「青天を衝け」のもととなった「巡信紀詩」の中の漢詩「内山峡」に関係するシーンが描かれていました。
既に「タイトル『青天を衝け』の由来」で漢詩「内山峡」についても紹介済みですが、安政5年(1858)栄一19歳の歳に、尾高惇忠とともに信州の紺屋を訪ねる旅に出ました。
10月に出かけているので売掛金の回収ではなく、紺屋の様子を見たり、来年の藍玉の売り込みのために行ったのでしょう。
この旅の記録が「巡信紀詩」ですが、栄一と尾高惇忠は文人風情で漢詩を読みながらののんびりとした旅だった様子が漢文で書かれています。
「青天を衝け」で、栄一が市郎右衛門に文人のようだと注意されていましたが、そうしたことも「巡信紀詩」に書かれています。
この旅で、佐久の名勝内山峡で詠んだ詩が「内山峡」です。
この漢詩全文は、漢字で書いてあり、なかなか難解です。
以前「タイトル『青天を衝け』の由来」を書いた際には、読み下し文が見つかりませんでしたが、その後、「渋沢栄一碑文集」(山口律雄・清水惣之助共編 博字堂刊)p57-59に読み下し文が書いてありましたので、それを参考にして下記に書いておきます。難解な語句についての説明も書いておきました。
※3月29日追記 現代語訳は次回記事で説明しています。
「内山峡」
襄山 (じょうざんえんえん)として波浪の如く
※蜿蜒→うねうねとどこまでも続くさま
西は信山に接して相送迎す
奇險なるは就中(なかんづく)内山峡
天然の崔嵬(さいかい) 刓(けず)り成すか如し
※崔嵬→岩や石がごろごろしていて険しい山
刀陰の耕夫青淵子
※刀陰→利根川の南(血洗島は利根川の南にある)、
刀とは刀寧川(利根川)の意味、陰には「山の北、
川の南」という意味もある。 ※耕夫→農夫
販鬻(はんいく)信に向いて路程を取る
※販鬻(はんいく)→商い
小春初八日風景好く
※小春→陰暦10月の異称 初八日→上旬の8日
蒼松紅楓草鞋(そうあい→わらじ)軽し
三尺の腰刀桟道(さんどう)を渉(わた)り
※桟道→山のがけの中腹に棚のように張り出してつ
くった道。
一巻の肩書崢嶸(そうえい)を攀(よ)づ
※崢嶸→山が高く険しいこと
渉攀(しようはん)益々深くして險いよいよ酷(はなはだ)し
奇岩怪石磊々(らいらい)として横たわる
勢は青天を衝いて臂(ひじ)を攘(まく)りて躋(のほ)り
気は白雲を穿(うが)ちて手に唾(つば)して征(ゅ)く
日未牌(みはい)に亭(とど)まりて絶頂に達す
四望すれば風色十分に晴る
遠近細やかに弁ず濃と淡と
幾青幾紅更に渺茫(ひょうほう)
※渺茫(ひょうほう)→遠くはるか
始めて知る壮觀の奇險に存するを
探り尽くす眞趣の遊子行
恍惚(こうこつ)として此時得る有るを覚(さと)る
慨然(がいぜん)として掌を拍(う)ちて歎ずること一声
君見ずや遁世(とんせい)清心の士
気を吐き露を呑んで蓬瀛(ほうえい)を求む
※蓬瀛 →中国で神山とされた蓬莱と瀛州(えいじゅう)
また見ずや汲々 (きゅうきゅう) たる名利の客
朝に奔(はし)り暮に走りて浮榮(ふえい)を趁(お)う
※浮榮→浮世のはかない栄誉
識らず中間に大道存するを
徒らに一隅を將(も)って終生を誤る
大道は由來処に隨(つ)いて在り
天下の万事誠より成る
父子は惟(こ)れ親君臣は義
友敬相待つ弟と兄と
彼の輩眼を着けるも此に到らず
憐むべし自ら甘んじて人情に払(さかろ)うを
篇成りて長吟すれは澗谷(かんこく)應じ
風は落葉を捲(ま)きて満山鳴る
「青天を衝け」紀行でも紹介されていたように、現在内山峡には漢詩「内山峡」の碑が建立されています。下写真はその碑の全景です。佐久市ホームページより転載させていただきました。

「青天を衝け」では、この漢詩を詠む中で千代との結婚を決意したように描かれていました。
しかし、「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」では、こうしたことは書いてありません。
もっとも、たとえ、そうであったとしても栄一自身がそのまま書くことはないと思いますが・・・
なお、「内山峡」の漢詩の全文は下記の通りです。

襄山蜿蜒如波浪 西接信山相送迎
奇険就中内山峡 天然崔嵬如刓成
刀陰耕夫青淵子 販鬻向信取路程
小春初八好風景 蒼松紅楓草鞋軽
三尺腰刀渉桟道 一巻肩書攀崢嶸
渉攀益深険弥酷 奇巌怪石磊々横
勢衝青天攘臂躋 気穿白雲唾手征
日亭未牌達絶頂 四望風色十分晴
遠近細弁濃与淡 幾青幾紅更渺茫
始知壮観存奇嶮 探尽真趣游子行
恍惚此時覚有得 慨然拍掌歎一声
君不見遁世清心士 吐気呑露求蓬瀛
又不見岌々名利客 朝奔暮走趁浮栄
不識中間存大道 徒将一隅誤終生
大道由来随処在 天下万事成於誠
父子惟親君臣義 友敬相待弟与兄
彼輩着眼不到此 可憐自甘払人情
篇成長吟澗谷応 風捲落葉満山鳴

