栄一と漢詩「内山峡」②(「青天を衝け」32)
昨日は、栄一が詠んだ漢詩「内山峡」の読み下し文を紹介しましたが、読み下し文でも、まだまだ理解しがたいものがあります。
また、江戸時代に農民として育ってきた栄一や尾高惇忠が、やすやすとこうした漢字だらけの詩を詠んでいることに驚かされました。
この点について、山本七平が「近代の創造 渋沢栄一の思想と行動」で次のように書いています。

以下、少し長くなりますが、お読みください。
『藍香遺稿』に残るその詩、特に青淵(栄一)の詩を読むと、十七歳の農家の一青年がセールスをしながらこういう詩を作ったのだなと思い、少々、感慨無量といった気持になる、というのはたとえば「襄山蜿蜒如波浪。西信山相送迎。奇險就中内山峽。天然崔鬼如成:::」とつづいていく文章が、埼玉の農家の十七歳の一青年の手に成るとは、今では到底想像もできないからである。今の人が『藍香遺稿』の原文でこの『巡信記詩』を読破せよと言われたら、それこそ難行苦行、否、不可能事であろう。しかし彼らはこれを楽しみで作っていたのであった。」(p135)
そして、「この二人は、紺屋への藍のセールスという、非常に駆引の多いむずかしい商売をやりつつ、またそれをも十分になしとげつつ、一方ではこのような詩文の世界に没入していたという事実こそ大切なのである。そしてそれが二十七歳と十七歳の農家の青年であったこと、これを現在と対比すると、別世界を見るような気がする。日本は大変に進歩したように見えるが、ある面では大変に退歩し、まだ、幕末の文化的水準に達していないのかも知れない。そして、これは近代化のためわれわれが支払わねばならなかった犠牲かも知れない。」と書いています。(p143.144)
佐久市の内山峡にある詩碑近くに、佐久市と佐久観光協会が設置した説明板があり、その中に漢詩「内山峡」の現代語訳があります。
そこで、佐久市のご了解をいただきましたので、下記に現代語訳を転載させていただきます。
なお、前述の「近代の創造」のなかにも現代語訳が載っています。
内 山 峡
高い(上州の)山は蛇のように曲がりくねり波の様である
西は信州の山に接して互いに送迎してくれる
とりわけ珍しく険しいのは内山の峡
天然の高く険しい山は、えぐられてできたようだ
利根川の南に住む農夫の青淵は、
商いのため、信州に向かって行程をとる
小春(旧暦10月)の8日、よい風景である
青い松・紅の楓、草鞋の足取りは軽く
三尺の刀を腰に差し、 桟道を渉っていく
一巻の書を背負い 険しい山道をよじ登る
歩き登ること、ますます深くして'険しさはいよいよ過橋となる
奇妙な形をした珍しい岩々が数多く横たわっている
勢いは青天を突きさすようで、うでまくりして登り
気持ちは白雲を貫き通すようで、手に唾をして行く
日は未髀(未の刻)にいたり、頂上に達すれば
四方に望む風景は十分に晴れている
遠近が細かに区躋できる、濃淡によってである
幾つもの青、幾つもの紅、さらに果てしなく広い
初めて知った、壮観が珍しく険しいところにあることを
真の趣を探りつくす、 旅人は行く
うっとりとした恍惚をこの時得ることを覚え
心を奮い立たせ手のひらをたたいて感嘆の一声を上げる
君は見ないのだろうか(見てください)類わしい世間を離れて暮らす清心の士が 気を吐き、露を呑み・神仙が住むという蓬瀛の山を求める客が
また見ないのだろうか、あくせくして名誉や利益を求める客が
朝に走って夕暮に走って、はかない栄誉を追うのを
極端ではない所に人の行う正しい道があることを知らずに
むなしく社会の片隅で人生をやりそこなう
人の行う正しい道は、もともと至る所にある
天下のすべてのことは、誠からなる
父子の関係は親(親愛)であり、君臣の関係は義(礼儀) である
愛情と敏意を、互いに待つ弟と兄とは(「兄友弟恭」と第う言葉から)
かの輩の着眼はここまで達していない
情れむべきことだ、自ら人情に払いのけるのを甘んじてを受け人れることは
詩が完成し、長く吟じれば谷がそれに応じる
風は落葉を巻き上げて、 山全体が鳴り響く
最後になりますが、「青天を衝け」では、栄一と尾高惇忠が険しい山を登っていき、栄一が青天に拳を突き上げるシーンがありましたが、その撮影は谷川岳で行われたそうです。

