栄一、雪山であやうく遭難(「青天を衝け」35)
「青天を衝け」第7回では、栄一が尾高惇忠とともに信州の紺屋を巡る旅に出て、その途中で青天に拳を突き上げるシーンが描かれていました。
栄一の信州の紺屋巡りの旅は、安政5年(1858)の秋の旅だけでなく、何回も信州に旅していたようです。
その旅は、秋だけでなく、厳冬の中の旅もあり、雪山であやうく遭難しそうになったことがありました。その時の話は「青天を衝け」では描かれていませんが、 今日は、その時の話を書こうと思います。
栄一が21歳か22歳の時、つまり元号で言えば万延元年(1860)または文久元年(1861)の冬に香坂峠を越えて信州に向かったことがありました。
上州から信州に向かうには、江戸時代は、北から碓氷峠、香坂峠、志賀峠、内山峠、戸沢峠といった峠があったそうです。
栄一が、この時利用した峠は香坂峠でした。
その時、上州で泊まればよかったのに、時間を間違えて、その日のうちに香坂峠を越えてしまおうと上りはじめました。
しかし、上っている最中は、まだ明るいうちで良かったものの、峠を越えて下り始めると、吹雪ほどではなかったものの積る雪で道が見えなくなるほどの雪で、道が分からなくなってしまい、何度も雪穴に落ち込み、「あの時ばかりはこれは駄目だ、死んでしまいはせぬか」と本当に心細くなったそうです。
そして、ようやく草鞋を売る家にたどり着き、そこに住んでいる老人夫婦に頼むと、「無鉄砲な事をなさったものだ。それでもここまでも来られて、よかった』と言って家に入れてくれました。
そして、栄一がすぐ炉のそばへ寄ろうとすると「それはいけない。そんな事をすると大変だ。あちらに藁があるからしばらくの間、寒いだろうが、それでもかけて休んでおいでなさい」と言われ、栄一が泊るのを厭がるような素振りだと栄一は思ったそうです。しかし、あとで聞くところによれば、凍えた体をすぐ火のそばへ持って行くとひぶくれになりひどい目にあうので火の傍へ寄せ付けなかったそうです。
そして、雑炊が出来たからと言われ、それを食べて空腹を満たし、夜は木綿蒲団で寝ました。そして、翌朝、痛む足をひきずって出掛け無事峠を越えることができました。
そして、「本当にあの時はモー助からないと思ったよ。」と栄一自身が後日語っています。
この話は、『渋沢栄一伝記資料』の中の「「雨夜譚(がたり)筆記」の中に書かれている話です。
内山峡の漢詩が作られた時は、紅葉がきれいな季節でのんびりと紅葉を頼みながらの旅でしたが、こんな厳しい経験もしながら藍玉商売をやっていたんですね。
なお、栄一の長女穂積歌子が、母千代の思い出を語った「ははその落葉」にも、この雪山であやうく遭難しそうになった話が書かれています。

