大橋訥庵(「青天を衝け」36)
「青天を衝け」第6回で大橋訥庵(とつあん)が登場しました。この大橋訥庵は、あまり名の知られていない人物ですが、尾高長七郎を通じて渋沢栄一にも影響を与えています。
そこで、今日は大橋訥庵について書いていきます。下写真は谷中の天王寺にある大橋訥庵のお墓です。墓表に淡雅大橋知良之墓と刻まれています。

大橋訥庵は長沼流兵学者清水赤城の4男として江戸飯田町に生まれました。訥庵は号、名は正順、通称順蔵と言いました。
大橋訥庵は、幼いころから学問を好み、20歳の時、佐藤一斎の愛日楼塾に入門しました。同門には佐久間象山、山田方谷などがいます。
天保12年(1841)、26歳の時、佐藤一斎の勧めにより、江戸日本橋の豪商「佐野屋」の大橋淡雅の娘巻子と結婚しました。
江戸日本橋の豪商大橋淡雅は、医師大橋英斎の子どもとして生まれ、15歳の時、宇都宮の豪商佐野屋治右衛門(菊地孝古)の養子となりました。
大橋淡雅は菊池孝古の一人娘であった民子を嫁に娶って菊地家の養子となりましたが、菊池姓は名のらず大橋姓を名のりました。
また、家督を継ぐ立場でしたが、大橋淡雅が26歳の時、養父菊池孝古は、大橋淡雅に江戸日本橋に出店することを許しました。
大橋淡雅は、商売上手で、一代で木綿を取り扱う豪商へと商売を発展させました。
一方で、大橋淡雅は若い頃から学問をしたいという希望をもっていて、大橋家を継ぐ後継者は学者から迎えたいと考え、娘巻子の婿養子に佐藤一斎の弟子で儒家として有望な清水順蔵(大橋訥庵)を迎え、大橋家の名籍を継がせました。
一方、商売の方は、巻子の実弟菊池教中(きょうちゅう)に継がせました。
大橋訥庵は、結婚を機に日本橋に思誠塾を開き弟子を育成しました。
「青天を衝け」では、この思誠塾に尾高長七郎が訪ねていくという設定となっていましたね。
日本橋の思誠塾で弟子の育成にあたりつつ、大橋淡雅の援助で宇都宮藩に仕えることとなり、宇都宮藩江戸藩邸で月1回講義を行いました。
大橋訥庵は、過激な攘夷論を主張し、ペリー来航時には幕府に攘夷の実行を迫る上書を提出していますが、藩邸で講義をしていたことから、大橋訥庵の影響が宇都宮藩に浸透するようになりました。
のちに、大橋訥庵は、老中安藤信正襲撃を計画するようになりますが、それはこれからのお話ですので、後日、改めて説明しようと思います。
4月19日追記
4月18日に放映された「晴天を衝け」第10回で、大橋訥庵が計画した「坂下門外の変」が描かれました。そこで、「坂下門外の変」について書きましたので、そちらもお読みください。

