将軍家定は暗愚であったか?(「青天を衝け」39)
家定は、暗愚な将軍と考えられています。
ドラマでもそのように描写されることが多く、大河ドラマ「篤姫」での堺雅人が演じた家定が印象深く記憶に残っています。
しかし、「青天を衝け」では、はっきりと意思表示をする将軍として描かれています。これは創作だと思う方もいると思いますが、「徳川慶喜公伝」には、「青天を衝け」で描かれているように、自ら意思決定しかつそれを意思表示できる人物であったと書かれています。
そこで、今日は「徳川慶喜公伝」に書かれている家定のプロフィールを紹介します。

「徳川慶喜公伝」では家定が亡くなったことも記録されていますが、その際に、家定の人物紹介を書いてあります。それは凡そ次のような内容です。
家定は、幼い時に重い疱瘡に罹り、顔中が疱瘡の痘痕で醜くなり、さらに病弱でもあり、いわゆる癇症で眼やロが時々痙攣し首も同様に痙攣する奇態を見せ、言葉も吃るように話すので、侍医等に見せていろいろな治療投薬をしたけれど効果はなかった。そこで、謡曲・乱舞などやってみると、謡ったり舞っている間は大丈夫だけれどそれが終わるとまた元のようになってしまう。
成年になってからは、家定自身もこの癖を恥じて人に見られるのを避け、意気消沈して陰鬱な生活態度で暮らした。正室を3人迎えたものの親しく話をすることもできず幽鬱の性質となった。
こうした家定の性質は外部の人は全く知らないで、奇妙な癖や態度をみて、暗愚な君主だと決めつけ、将軍として天下を任せるのは心配だと諸大名や幕府の役人が考えるようになった。(参考:ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝1」p188~189)
こうした説明がされた後に、永年、家定に小姓として仕えた朝比奈昌広は次のように語っていると書かれています。
※朝比奈昌広は、12代将軍家慶の小姓として出仕した後、世嗣の家定の小姓となり、家定に長く仕えました。のちに、長崎奉行・外国奉行等幕府要職を歴任しています。
「家定公は、普通の才徳あって、物の道理も一通りはわきまえていて、普通の人物並の能力はもっていました。
その例としては、理髪役の小姓がある時急ぐために乱暴に髭をそり後で謝罪した際にそれを許すばかりでなく誉めたこともあり、また、ある日、隅田川に御成りになった時、小性が隅田川の水を指して、「この川の水もアメリカの大洋の水もつながっていますので、現在の御時勢ゆめゆめ御油断ないようにしてください」と申し上げると、家定は、「実に其方が申す通りぞ」といって喜んだこともありました。
このように家定公は思慮ある人ですので、もし寛文より天明までの間に生れた将軍であったならば、あるいは激動の嘉永・安政の時代であっても、外様・譜代の大名に生まれたのであれば、決して暗愚な藩主だと言われることはなく、随分、思慮分別ある藩主とも言はれることもあったと思います。国家多事の時の将軍家に生まれて、汚名を着せられてしまい、本当に不幸な将軍でした。」(参考:ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝1」p188~189)
このように、「徳川慶喜公伝」では、明治になって朝比奈昌広が語っていることも引用して、家定は、しっかりした判断ができる将軍であったと書いています。
そこで、重要な決定事項を自ら行っている例を3つ紹介します。紹介するのは、①井伊直弼を大老に指名したこと、②将軍継嗣に紀州の徳川慶福を指名したこと、③不時登城した斉昭らの処分を命じたことの3点です。
これら3点は、「青天を衝け」で、家定が自ら意思決定をしていているように描かれていた事項です。
①井伊直弼に大老を指名していることは、「公用方秘録」では、堀田正陸が家定に松平慶永を指名するよう進言したが、家定は井伊直弼以外いないと述べたと次のように書かれています。
「松平越前守(慶永)へ御大老仰せ付けられ然るべき旨伺に相成り候処、上様御驚、家柄と申し、人物に候へば、彦根を指置(さしおき)、越前へ仰せ付けらるべき筋これなく、掃部頭(井伊直弼)へ仰せ付けらるべしとの上意にて、俄に御取り極(きめ)に相成り候との事承り申し候」(母利美和著「井伊直弼」p185)
②将軍継嗣問題についても、「徳川慶喜公伝」では、5月末に井伊大老と「老中が家定に謁見し、慶喜と慶福、いずれを継嗣にするかお伺いをした際に慶福を継嗣にすると指名したとして、次のように書いています。
「五月の末には、諸大名の答議もほぼ出揃ひ、残れるは松平越前守等の二・三藩に過ぎず、此に於て大老は時機至れりとや思ひけん、老中と共に将軍家に謁し、一橋刑部卿・紀伊宰相・両説につきて裁決を請へるに、『宰相をこそ』との台命ありて、養君の議確定しければ、六月朔日、三家・両卿・溜詰大名に、『御筋目の内より御養君遊ばさるべし』との内意を示し、翌日宿次奉書を以て京都へ伺を立てらる。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝1」p152)
➂徳川斉昭、徳川慶篤、徳川慶恕が不時登城をしたことにより処分されますが、これについても「徳川慶喜公伝」には、家定の意向であることとして次のように書いてあります。
「時に将軍家定公病ありて、漸く危篤に瀕せしが、かの不時登城の事を聞きて大に怒り、公の登城停止大老に命じて烈公等を責罰せしめんとす。」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝1」p187)
このように、将軍継嗣の決定や斉昭らの処罰決定等の重大な意思決定を家定自らが行っていると「徳川慶喜公伝」に書かれていて、将軍家定は暗愚ではなかったようです。

