慶喜、井伊大老を詰問(「青天を衝け」40)
「青天を衝け」第8回で、慶喜が大老井伊直弼を詰問する場面がありました。
これもほぼ実話通りです。そこで、今日は、慶喜の井伊大老詰問について書いていきます。
慶喜が、井伊大老を詰問したことについて、「徳川慶喜公伝」にも書かれていますが、「青天を衝け」で、慶喜が井伊大老を呼べと言ったシーンについては書いてありません。そこで、井伊大老を呼べと言った部分からの慶喜の動きを記録しているのは「昨夢紀事」ですので、その「昨夢紀事」を参考に書こうと思います。
「昨夢紀事」とは、越前藩参政中根雪江(なかねせっこう)の日記で、嘉永・安政年間の史料として第一級のものと評価されています。これも国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。
それでは、本論に入ります。
「昨夢紀事」では、平岡円四郎がやってきて話してくれた慶喜が井伊大老を詰責した経緯が次のように書かれています。
安政5年(1858)6月22日、幕府が日米修好通商条約の調印をするとの報告を家老から聞くと、慶喜の顔色が変り、「それは違勅ではないか、違勅ということはあってよいことかあるべきでないのか、どう思う」と家老に尋ねました。家老が、「違勅など許されません」と返事すると、 慶喜は、「では、大老ならびに老中たち、全員そろって当屋敷へ来るよう申し伝えろ」と命令しました。
これを聞いた家老たちは大変驚いて恐る恐る「大老や老中など当屋敷に呼びだすというようなことは今まで前例がありません。お考え直しください」というものの一喝されてしまいます。
「青天を衝け」での場面は、まさこの通りです。
なお、慶喜の家老への命令の中には「もし、多忙でこられなければ、明朝こちらから登城すると伝えよ」という部分もありますが、これは、「青天を衝け」では省かれていました。
家老は叱られて仕方がなく城へ行きましたが、直接、大老には怖くて言えないので御側御用取次の平岡道弘に話し、平岡道弘が井伊大老にそれを告げると、さすがに井伊大老も驚きました。そして、一橋家の家老を自分の屋敷で待たせておいて、屋敷に帰ったあと、「今日は御用繁多で帰宅もこんなに遅くなったので本日は一橋邸に伺えない。明日、城でお待ちします。」と返事をしました。
そこで、翌日、慶喜は登城し井伊大老と面会することとなります。なお、「昨夢紀事」では、田安慶頼と示し合わせて登城したと書いてありますが、「青天を衝け」では、この部分も省かれていました。特に大きな影響がないので致し方ないと思います。
さて、慶喜と井伊大老の面会は次のように展開しました。
慶喜は、最初に井伊大老を慰労する挨拶をした後で、早速、本論に入り、「調印のことは其許(そこもと)は知っていたのか」と問うと、井伊大老は、「恐れ入り奉り候」とだけ答えました。続いて「将軍は御存じだったのか」と聞くと、またやも「恐れ入り奉り候」と頭もあげずに答えました。
これには慶喜も困り微笑みながら、「其許(そこもと)は反対だったのを堀田正睦や松平忠固が無理に強行したのだろう」と言うと、井伊大老はようやく頭をあげて「自分も同意しました。恐れ入り奉り候」と答えました。そこで、慶喜が、「それはけしからぬ、違勅になるのをどう思うのか」と問うと、井伊は「私もそう思って初めは反対したのですが、多勢に無勢で仕方なく賛成しました」と答えました。
続いて、「勅命に反して条約調印したことの報告を、宿継奉書で京都へ送ったのは何事か。すぐに其許(そこもと)が京都へ行って申開きすべきである」と問い詰めました。これにも、大老は「恐れ入りますので、いずれ私か老中のうち誰かが上京いたしますので、これまでのことはどうかお許し下さい」と答えました。慶喜は「明日にでも出立するようにすべきである」というと井伊大老は「恐れ入って候えば、早々に評議します。」と答え、井伊大老は非常に低姿勢に「恐れ入り奉り候」を繰り返して、果てがないので、条約調印問題についての詰問は一区切りつけざれをえませんでした。
慶喜と井伊大老とのやり取りは、このあと、将軍継嗣についてのやりとりに展開していきますが、長くなりますので、それについては、次回書きます。

