慶喜、将軍継嗣決定を喜ぶ(「青天を衝け」41)
安政5年(1858)6月23日、江戸城に登城し、大老井伊直弼と面会した慶喜は、まず違勅調印の件で井伊大老を詰問し、そのあと、将軍継嗣問題に話題を進めます。
違勅調印については前回書きましたので、今日は将軍継嗣について書いていきます。
このやりとりも中根雪江(せっこう)の「昨夢紀事」に詳しく記録されていますので、それに従って書いていきます。
慶喜は、井伊大老に「御養子のことはどうなったか」と尋ねました。
すると、大老は、顔色を変え、慌てて、ただ「恐れ入り奉り候」と言って頭を下げました。慶喜は、「何も恐れ入ることはあるまい。内々に聞くまでだ」と言っても、大老は「恐れ入り奉り候」とだけ答えました。慶喜は、「まだ決まっていないのか」と聞いても、やはり「恐れ入り奉り候」とだけ答えました。
そこで、慶喜の方から、「なぜ答えられないんだ。紀州殿に決まっているのではないか」というと、井伊大老は、「実はそうです」と返事をしました。
それを聞いて慶喜は、「それはおめでたい。将軍継嗣の件は、世上でいろいろなうわさもあり、私の方も関係しているようなので心配していたが、紀州殿に決まったと聞いてこの上もなく安心した。紀州殿は勘気という病気もあると承っていたが、先日御登城の際に拝見したら、そんな様子もなく、背丈も年よりは大きくみえて安心した。御幼年だからと心配するむきもあるが、其方が大老として補佐申し上げれば何の不足があるか。自分も徳川のために奉公するつもりである。」と言うと、大老はたちまち喜色満面となり、一橋卿がそう思って下されば、誠にありがたく安心しました。」との返事があった。慶喜は、「私の方から何か考えていることがあるようだと思われている。しかし、現老中の中では大和守(久世広周)だけが知っているだろうが、備中(堀田正睦)や伊賀(松平忠固)には再三申しいれたこともあり、私には世嗣になろうというような分不相応な望みはない。何はともあれ、紀州殿に決定したのであれば、一日も早く発表するのがよいだろう」と言うと、大老は、「それではいつごろがよろしいでしょうか」と言うので、「明日にでも」と言うと、大老、指を折ってみて、「明日は御精日だから明後日でいかがでしょうか」と答えたので、慶喜は「いずれにしても早い方がよいだろう」というと「それでは明後日にしましよう」ということになりました。
こうして将軍世子は、紀州家の徳川慶福に決まりました。
この「昨夢紀事」によれば、家定の世子に紀州家の慶福がなることについて慶喜はまったく異論がなかったようですし、「青天を衝け」のシーンは実話に基づいたものであるとわかります。
この後、実際に、紀州家の慶福を将軍世子とするという発表は、二人の会見が行われた明後日にあたる安政5年6月25日に行われています。
この井伊大老とのやりとりについて、明治になって慶喜は「昔夢会筆記」のなかで、「伊賀(松平忠固)・大和(久世広周)に(将軍継嗣の件を)断ったというのは真実ではないが、堀田正陸や本郷丹後守(泰固)には「固くご辞退す」といったことは覚えている。私が、将軍世子になるのを嫌ったのは、幕府の衰亡がはっきりしてきていることだけなく大奥が恐るべき存在となっていて、それを建て直す見込みがなかったためである」と語っています。(参考:ワイド版東洋文庫「昔夢会筆記」p24)
こうして二人の間で将軍継嗣の話題が一区切りついた段階で、慶福が将軍家の世子となった後の紀州家のことが話題となり、慶喜は、井伊大老から紀州家に入るつもりはないかと問われていますが、慶喜は断っています。
これについては、「青天を衝け」では描かれていませんが、興味深いことですので、こちらも紹介しておきます。
慶喜は、将軍継嗣の話題が一区切りついた後、「慶福公が将軍になった後の紀州家はどうするのか」と大老に尋ねました。すると大老は、(特に考えていなかったようで)行き詰まった様子でしたが、やがて笑みを含みながら「もし(慶喜が)お望みならば取り持ち致します」と答えたので、「それはけしからんことをいう。私は一橋家を出たくないから将軍世子でさえ辞退しているのに紀州家のことなど思いもよらない」と断りました。しかし、「昨夢紀事」によれば、それでも、井伊大老からは繰り返し要請があったようです。
将軍継嗣に関する井伊大老とのやりとりについて、慶喜は「昔夢会筆記」で次のように述べています。
「掃部頭(井伊直弼)に、『御養君はもはや定まらせられしや』と尋ねたるに『紀公と内定したり』と答うる故、『そはめでたき事なり』といいしに、掃部頭はまた『紀州の跡には思し召しあらせられずや」といいしが、予はただ『ふふん』とのみいいて何とも答えざりき。』(ワイド版東洋文庫「昔夢会筆記」p25~26)
これによっても、慶喜は慶福が将軍世子になることを喜んでいますので、本当に将軍世子になるつもりはなかったようです。また、慶福の跡の紀州家に入る件については。「昔夢会筆記」では「ふふん」とだけ対応して無視していますが、その気は全くないという点では「昨夢紀事」と一致しています。

