岩瀬忠震、井伊大老任命に抗議(「青天を衝け」42)
「青天を衝け」第8回では、井伊直弼が大老に任命された後、廊下を歩いていた際に向かい側の廊下で岩瀬忠震と永井尚志が声高に抗議しているシーンが印象に残りました。
岩瀬忠震らが抗議したことは、「昨夢紀事」に載っています。
岩瀬忠震は、幕末の優秀な官僚と言われていながら、あまりスポットが当てられたこともないので、今日は、岩瀬忠震について書いていきます。
まず、「昨夢紀事」にどのように載っているかご紹介します。
安政5年(1858)4月23日井伊掃部頭(井伊直弼)が大老職を拝命した。その夕刻、岩瀬忠震から橋本左内の所に御城内の様子が報告された。
今日掃部頭殿へ大老を命じられたことは、全員(原文では盡く)が不服で、永井尚志、鵜殿鳩翁、岩瀬忠震は憤激にたえかねて、老中たちに「ただいまの情勢を考えれば、老中のうえに大権を持った人をおくことはもっともなことであるが、井伊直弼はその器ではない。このような人を推挙したのでは、危急存亡の天下が治るとお考えか?」と抗議し詰問した。それに対して老中たちは「それは・・」と言うばかりで、はっきりした返答もなく「あの人は大老という役職に座っているだけだ」などと言い逃れをいうばかりなので海防係もあきれてものが言えなかった。
このように、「昨夢紀事」には、海防係である岩瀬忠震、永井尚志、鵜殿鳩翁の三人が老中に抗議したと書いてありますが、「青天を衝け」では、岩瀬忠震と永井尚志だけが抗議していましたね。
さて、岩瀬忠震ですが
岩瀬忠震は、文政元年(1810)、旗本設楽貞丈の3男として生まれました。
母は林述斎(林大学頭)の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎、従兄弟に堀利煕がいます。
天保11年(1840)23歳の時、岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継ぎました。
天保14年(1843)昌平校大試験に乙科及第、嘉永2年(1849)部屋住のまま両番士,甲府徽典館学頭,昌平校教授を歴任し、嘉永6年、徒頭となり、翌年の安政元年1月22日、永井尚志,大久保忠寛らと前後して目付に登用されました。
ペリーの再来航が1月16日ですので、ペリー再来航後、阿部正弘が急遽若手秀才を登用した中の一人として登用されました。
目付に登用されて、海防掛、軍制改正用掛、蕃書翻訳用掛、外国貿易取調掛を兼務しました。
安政2年(1855)には、日露和親条約修正のためのロシアのプャーチンとの交渉に加わり、安政3年(1856)8月にアメリカからハリスが来日し、安政4年12月より下田奉行井上清直とともに全権に任ぜられて日米修好通商条約の草案の審議に当たりました。
草案合意後、条約勅許を得るために安政5年老中堀田正睦に従って上洛しましたが、朝廷から条約調印の承認を得られず江戸に帰りました。
4月に江戸帰着早々、井伊直弼が大老に就任しました。
冒頭の「昨夢紀事」に載っている老中たちへの抗議は、この時に行われたものです。
井伊大老からの指示は、勅許を得るまで引き延ばしを交渉しろというものでしたが、岩瀬忠震は、即時調印すべきとの考えから「ハリスが引き伸ばし交渉に応じなかった場合には、調印してもよいか」と質問した(実際に質したのは井上清直のようです)うえで、「その場合には調印しても致し方ない」との言質をとったうえで、ハリスとの交渉に臨みました。
ハリスは当然引き伸ばしに応じなかったため、安政4年6月19日、井上清直と共に全権として条約に調印しました。
そして、その年7月、新設の外国奉行に就任、引き続き日蘭、日露、日英、日仏の各修好通商条約の交渉にあたり調印しました。まさに対外交渉の第一線で活躍したのでした。
「青天を衝け」第8回では、このあたりまでが描かれています。
しかし、岩瀬忠震は、将軍継嗣問題で一橋慶喜の擁立をめざす一橋派の中心人物として行動したため、大老井伊直弼に忌まれ、五か国条約調印直後の9月5日、井伊直弼により作事奉行に左遷され、翌安政6年8月作事奉行罷免・永蟄居に処せられ,江戸向島に隠棲し、文久元年7月16日なくなりました。44歳でした。下写真は、豊島区の雑司が谷霊園にある岩瀬忠震のお墓です。

岩瀬忠震が生まれ育ったのは江戸ですが、愛知県新城市にある設楽原歴史資料館が岩瀬忠震の絵画等を収集展示していますので、それを紹介しておきます。
新城市設楽原歴史資料館は、武田家と織田・徳川連合軍が戦った有名な「長篠の戦い」の中で武田騎馬軍団と織田・徳川連合軍の鉄砲隊の戦いの主戦場となった設楽原の古戦場にあります。
そのため、この資料館の展示の中心は、設楽原の戦いです。それともう一つあります。それが本日説明している岩瀬忠震に関する展示です。
岩瀬忠震は、設楽貞丈の四男に生れ、岩瀬家に養子に入ったと書きましたが、生家の設楽家は、江戸時代、三河国設楽郡(現在の新城市)に領地がありました。
そうしたことから、設楽原歴史資料館は、岩瀬忠震に関する絵画等を収集しているそうです。
収集品のうち、 ①岩瀬忠震肖像画、②岩瀬忠震筆『藤に芍薬』が「設楽原歴史資料館 名品10選!」としてホームページに公開されています。
下記リンクからご覧になれますので、ぜひごらんください。
設楽原歴史資料館の入り口前に、岩瀬忠震の銅像があります。地元の人により平成28年に建立されたものだそうです。新城の市民の岩瀬忠震に対する思い入れがよくわかります。
なお、この写真は、設楽原歴史資料館よりお送りいただいたものです。ご厚意に感謝します。


