斉昭の不時登城と謹慎(「青天を衝け」43)
「青天を衝け」第8回では、斉昭と尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)・水戸藩主徳川慶篤が登城日でもないのに登城して井伊大老を詰問し、翌日には処分されるシーンがありました。
この斉昭らの不時登城は、大変有名な話で、いろいろな本やドラマで取り上げられているものです。
「青天を衝け」では、第9回では安政の大獄から桜田門外の変まで一期に取り上げられるようですが、斉昭等の処分を安政の大獄の始りとする本もありますので、今日は斉昭らの不時登城と処分について、「水戸市史」を参考にして書いておきます。ほぼ「青天を衝け」で描かれていた通りとなります。
徳川斉昭は、幕府の将軍継嗣発表を明日に控えた24日、尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)、水戸藩主徳川慶篤と3人で登城し、井伊大老らに面会を求めました。
斉昭にとっては、安政4年7月に幕政参与を辞任して以来となり、ほぼ一年ぶりの登城ですが、三家・三卿の登城には一定の例日があるのに、斉昭らはこれを無視して登城したため、不時登城と言われています。
不時登城という滅多にない出来事に、老中たちは非常に狼狽して、まずは老中間部詮勝らは老中たちだけで斉昭に面会しようと井伊大老に提案したものの、井伊大老が自ら会うとことなるなどの混乱ぶりが伝えられています。
斉昭たちが登城したのは「四つ半時」(午前11時頃)でしたが、約4時間も待たされ、井伊大老と面会できたのは「未の半(午後3時頃)近く」でした
面会では、斉昭が、違勅調印を詰問すると、井伊大老は敢えて違勅を行なう考えは無かったと弁解しました。
そして、「松平春嶽も登城しているから同席させよ」と斉昭が迫ると、大老は、城中の詰所の相違を理由にこれを拒否しました。
慶恕は、「一橋慶喜を将軍の世子とすれば、違勅の申し開きに良いだろう」と述べると、井伊大老は、「世子は将軍家定の意向によるものである」と一蹴し、将軍に直接面会したいとの申し出も認めませんでした。
最期に、斉昭が重ねて、重大な時局であるから幕閣を強化する必要があると暗に松平春嶽を大老に任命するようにと申し出ると、老中間部詮勝はこの言葉を受けて、一応もっともであるが、家康以来三家・大老・老中いすれも深き思召しによって定められている制度であり、御三家を御四家にできないと同じですと言って忍び笑いされるほどでした。
このように斉昭の不時登城は何も得ることがありませんでした。
「水戸市史」は、この不時登城について、「斉昭としては、先ず違勅問題で直弼に打撃を加え、その勢に乗って明日に迫った世子公表を押し留め、慶喜擁立を計ろうとする術策だったのであろうが、直弼に説破されて何一つ目的を達することは出来なかった。」と書いてあります。
「三卿は一も目的を達せられずして、空しく退城せらる。天下の同志は此不時登城によりて大老等を面責し、一趺(いってつ)して復起っこと能はざるに至らしめんと期待せしに、却(かえっ)て大老等に論破せられしかば、同志は斉(ひと)しく痛恨し、烈公(なりあき)も亦多年の声誉を失墜するに至りしこそ是非なけれ」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p186)
井伊直弼は、その翌日の6月25日に将軍継嗣は徳川慶福であることを正式に発表するとともに不時登城した人々を処分しました。
すなわち斉昭は駒込邸で急度慎と書信往復の禁止、尾張藩主徳川慶恕(よしくみ)は隠居と戸山邸で慎み、と越前藩主松平慶永には隠居と急度慎、慶篤と一橋慶喜は当分の間登城禁止という厳しい処分が下されました。(処分内容は「水戸市史」による)

