慶喜、隠居謹慎の処分を受ける(「青天を衝け」44)
「青天を衝け」第9回は、慶喜周辺の出来事が中心の回でした。安政の大獄から桜田門外の変までを45分の中で描写していました。すごいですね。
第9回が始まる早々、慶喜の隠居謹慎蟄居の処分の通告のシーンでした。
前回書いたように安政5年(1858)6月25日に当分の間登城禁止の処分を受けていましたが、安政6年(1859)8月27日、改めて隠居謹慎蟄居の処分を受けることになりました。
「徳川慶喜公伝」を後述しますが、慶喜は、この命令を聞いて、雨戸を閉じて、縁側に近ずかなければ読書もできないような室内で麻裃を常に着て端坐していました。しかも真夏でも風呂に入らず髭も伸び放題で、許可がなければ月代(さかやき)も剃りませんでした。
まさに「青天を衝け」で描かれていた通りです。
「徳川慶喜公伝」には、次のように書かれています。
「烈公処罰の日、幕府は一橋家老竹田豊前守(斯綏)を城中に召し、大老井伊掃部頭を初め老中の面々列座の上、公に対して、「思召の御旨あらせらるるにより隠居慎仰せ出さる、ついては領知は其まま、附人・抱人どもは一橋附と心得べし」との旨を達せり。(中略)此度は厳重なる謹慎の態度 台命なればとて、常に居室の雨戸を閉ぢ、唯所々二寸ばかりに開かせられて、僅に日光を通はし給ふのみなれば、室暗くして、読書も椽側に近づかざれば明を取ることを得ず。
常に麻裃を召されて端坐し、夏の暑さにも沐浴し給ふことなく、髪延びて逆上の気あるも、伺(うかがい)の上ならでは月代(さかやき)をも剃り給はず。凡そ此度の事は御身に覚えなき科(とが)なる上に、四部屋住(=一卿は将軍の家族にて、独立の戸主ならざる意)の者に隠居の命あるは、その意を得ずと思召(おぼし)されたれども、重き公命なればとて、殊更厳重なる御慎なりき」(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p233.234)
どうして、こんなに厳しく自分を処していたか
慶喜は、それは、自分に罪はないのに処分の対象となったので、血気盛んな若さゆえの意地があって、厳しく謹慎していたようです。
「青天を衝け」では、慶喜が語るのではなく、美賀君に理由を語らせていましたが、明治になって慶喜自身が「昔夢会筆記」の中でその理由を語っています。
慶喜は「安政6年の御謹慎中の御模様を伺いたく候」という質問に対して次のように語っています。
「慎隠居を命ぜられし後は、昼もなお居間の雨戸を閉てて、ただ二寸ばかりに切りたる竹を処々に挿み、細目に開きて光を取れり。されば縁側に出でねば、暗くして書見もなし難かりき。朝は寝所を離るるより麻上下を著用して、夏の暑きにも沐浴せず、もちろん月代を剃ることなし。幕府より見廻りあるにもあらねば、寛ぎ得られざるにはあらざれども、身に覚えなくして罪(つみ)蒙(こうむ)りたるたれば、一つには血気盛りの意地よりして、かく厳重に法のごとく謹慎したりしなり。さればにや、思いしよりも早く慎み方よろしとの廉にて御免となれり。最初慎を申し渡さるる時は、ただ書附を家老に渡されしのみ。そもそも三卿は幕府の部屋住みなれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるるは、その意を得ざることなりと、当時もっばら批判した。」(ワイド版東洋文庫「昔夢会筆記」p33)

