安政の大獄(「青天を衝け」45)
「青天を衝け」第9回では、慶喜が隠居を申し付けられ、斉昭も永蟄居を申し付けられて水戸に向かう場面から始まりました。
これは安政6年8月27日のことです。この日は、安政の大獄による処罰が初めて公表された日です。
安政の大獄は、8月27日以前に始まっていますが、「青天を衝け」では、安政の大獄については、井伊直弼が朱墨で容疑者の名前を消す所作で描かれているだけで、詳しくは触れられていませんでしたが、安政の大獄は、桜田門外の変に続く幕末の重要な事件でもありますので、今日は安政の大獄について書いていきます。
安政の大獄の始りが、斉昭らの不時登城に対する謹慎などの処分と書いてあるものもありますが、安政の大獄は、8月8日に水戸藩に対して、いわゆる「戊午(ぼごのみっちょく)の密勅」とよばれる勅諚が降下されたことから始まるとしている研究者が多く、「井伊直弼」(母利美和著 吉川弘文館刊)でもこの説が採られていますし、「水戸市史」にも同じ内容の記述があります。

「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」とは、安政5年(1858)8月8日に孝明天皇が水戸藩に下賜した「勅諚」で、「戊午(ぼご)」とは安政5年の干支(えと)が戊午(ぼご、つちのえうま)であったことから、そう呼ばれます。
「密勅」といわれるのは、勅諚降下についての決定は関白が加わって決定されるという正式な手続を経ないまま降下されたことや幕府に対して勅諚降下が秘密にされていたためです。
戊午の密勅が出されたのは、孝明天皇の意向に反して幕府が勅許をえず条約を調印し、御三家のうち尾張家や水戸家が処分されたことから孝明天皇が不快感を示し、退位の意思表示をし、この退位を思いとどませるために、諸大名力を合わせて幕府の政治姿勢を正せとの勅諚を水戸藩に降下するということになりました。
この密勅降下の中心となったのは、左大臣近衛忠熙、右大臣鷹司輔、内大臣一条忠香、前内大臣三条実万の四公で、関白の九条尚忠は参内せず協議に加わりませんでした。これが密勅と言われる所以です。
戊午の密勅は、8日早朝、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門は万里小路正房に呼ばれ、勅諚を受け取り、急ぎ江戸藩邸に届けるよう命じられました。鵜飼吉左衛門は、直ちに息子幸吉に勅諚を持たせて東海道を江戸に向かわせました。控えの勅諚は、日下部伊三治により木曽街道を江戸に向かうことになりました。
鵜飼幸吉は8月16日深夜に密勅を小石川の藩邸に届けました。徳川慶篤は駒込邸にいる斉昭の意向を聞いたうえで勅諚を翌日受け取りました。
こうした戊午の密勅は水戸藩江戸屋敷に到着しました。
このように特定の藩に勅諚が降下したことは前代未聞のことでした。
「安政の大獄」とは、この戊午の密勅降下に驚きかつ怒った井伊大老が密勅降下に関与した人たちを主な標的として弾圧した事件です。
密勅降下の情報を得た幕府では、尊攘志士や公家の家士の捕縛の指揮をとるため、安政5年9月3日老中間部詮勝を急いで上京させます。
これ以前8月16日には、京都所司代酒井忠義(小浜藩主)が出発しており、9月3日に京都に着き、捕縛にとりかかります。
捕縛の第一の標的は志士の巨頭と目されていた梅田雲浜で、戊午の密勅の効果にも関与したと酒井忠義は見ていました。梅田雲浜が逮捕されたのは9月7日です。これが安政の大獄の始まりとされています。梅田雲浜に続いて梁川星厳の逮捕に向かいましたが、星厳はすでにコレラのため死亡していました。
井伊大老は、老中間部詮勝に、「猛火の中に飛び込む決意が必要」と厳しく支持しています。その老中間部詮勝の入京は9月17日でしたが、入京した翌日の9月18日、戊午の密勅の降下に関わった水戸藩の鵜飼吉左衛門・幸吉父子に京都町奉行所に拘引し、そのまま逮捕し六角獄舎に投じました。
このように、密勅降下に関わった人物を中心に捕縛した後、鷹司家諸太夫の小林良輔の逮捕を皮切りに公卿の家臣の逮捕にまで拡大していきました。
京都での逮捕と同時に江戸でも密勅にかかわった人や一橋派の人物の逮捕が開始され、越前藩士橋本左内が奉行所への出頭が命じられたのが10月23日で、尋問をうけた後、小伝馬町牢屋敷に入れられました。
そして、翌安政6年になるといよいよ水戸藩の重役にまで、累が及ぶことになりました。安政6年4月24日に、水戸藩に対して、家老安島帯刀(あじまたてわき)、奥祐筆頭取茅根伊予之助、勘定奉行鮎沢伊太夫への出頭を命じました。
安島帯刀と茅根伊予之助は、当時の藩主慶篤の両翼と呼ばれるほどの重臣でしたが、容赦なく摘発をしました。
逮捕された人々は、五手掛の審問を受けることになりました。
五手掛とは、重要問題について審議する評定所の中で、最重要問題を審議するメンバーで、安政の大獄当時は、寺社奉行本庄宗秀、町奉行石谷穆清(いしがやあつきよ)、勘定奉行池田頼方、大目付久貝正典、目付松平康正の五人で構成されていました。捕縛された人々に対する厳しい尋問が行われ、五手掛による刑の宣告は、安政6年8月27日、10月7日、10月27日の3回にわたって言い渡されました。
8月27日に処罰された人は、水戸藩関係者が多く、徳川斉昭が永蟄居、徳川慶篤が差控、徳川慶喜が隠居・謹慎となりました。また、評定所での宣告で、水戸藩家老の安島帯刀が切腹、鵜飼吉左衛門(京都留守居役)が斬罪、鵜飼幸吉(京都留守居役助役)が獄門、茅根伊予之介(奥右筆)が斬罪とされました。
「青天を衝け」第9回では、始まる早々にこの宣告を受ける慶喜、そして水戸に向かう斉昭の様子が描かれていました。
斉昭は、9月1日、駒込邸を出て水戸に向かいました。この時に次の和歌を詠んでいますが、再び武蔵野の月を愛(め)でることはできませんでした。
はれゆきて まためくりくる 秋もあらねば
ふたたび愛む 武蔵野の月

