桜田門外の変(「青天を衝け」46)
安政の大獄で、戊午の密勅に関与した人々や一橋派の人々を弾圧した井伊直弼は、安政7年3月3日、桜田門外で水戸浪士17人と薩摩藩士1人により暗殺されました。これが有名な桜田門外の変です。「青天を衝け」では、桜田門外の変は、数分間の描写でしたが、非常に印象的なシーンでした。今日は、桜田門外の変について書いていきます。下写真は現在の桜田門です。

戊午の密勅の取り扱い
安政5年(1858)8月8日、戊午の密勅を降下しましたが、その2日後の8月10日、朝廷は、水戸藩に下したのと同文の勅諚を幕府にも渡し、それは8月19日に江戸の幕閣の許に届きました。同じ日に水戸藩からも、幕府に密勅を受領するとともに、尾張・紀伊両徳川家および田安・一橋両卿に、密勅降下の事実とその内容を伝えたとの報告が届けられました。
幕府は、即日、間部詮勝、太田資始(すけもと)を水戸藩邸に派遣し、勅諚の内容が同じであることを確認し、翌日に、間部詮勝・太田資始は、御三家二卿以外の諸大名に勅諚の内容を伝達しないよう命じました。さらに、水戸藩人事にも介入し、改革派の執政を隠居させました。
そうして、昨日書いたように、安政の大獄で密勅降下に関連した水戸藩関係者を処罰しました。この処罰により、安政6年(1859)斉昭は水戸へ永蟄居となり、慶篤も差控となりました。しかし、安政の大獄の処罰が一段落した後も、幕府は問題の勅諚を返納させるために関白九条尚忠を動かして返納を命じる勅錠を出させよう働きかけを続け、安政6年(1859)12月10日に京都所司代が受け取り、12月15日、井伊直弼は、江戸城内で徳川慶篤に対して勅錠を返納するよう伝えました。
さらに、翌日、若年寄安藤信睦(のちの老中安藤信正)は、小石川の水戸藩邸に赴き勅錠を朝廷に返納させるべく水戸藩に圧力をかけました。
水戸藩内の派閥抗争
水戸藩では、勅錠は水戸の祖廟に納めてあったので、即時に返納することはできませんでしたが、水戸藩では密勅の扱いと幕府の圧迫に対して、様々な意見が出され、藩内の抗争・混乱が激しくなりました。
水戸藩内には以前から、保守的な門閥派と改革をめざす天狗派の対立がありました。この時期は幕府の後ろ盾を得て門閥派が政権を握っていました。
門閥派は、幕府の意向に従おうとします。
一方、天狗派は、穏健な改革を目指す慎重派の鎮派と、直接行動やむなしとする激派に分かれていき、鎮派の人たちは、密勅を返納しようと考えますが、激派の人々は、返納に反対します。鎮派の代表格は会沢正志斎であり、激派には家老安島帯刀、奥右筆頭取高橋多一郎、郡奉行金子孫二郎らがいました。
激派は過激行動に走る
12月25日には、水戸藩が勅錠の返納を決定し、藩内に布告しました。
これに対して返納に反対する激派は、勅諚が鎮派によって密に持ち出されるのを防止しようと、江戸に通じる水戸街道の長岡宿(茨城県東茨城郡茨城町)に集まり、往来する人々を改めるという挙に出ました。
水戸藩は長岡勢を鎮定しなければ勅錠の返納もおぼつかないと考え、斉昭も長岡勢を鎮圧することを決意し2月15日には諭書を下しました。
2月18日には、水戸藩が長岡の激派の首領である高橋多一郎や関鉄之介を召還しようとしますが、既に藩を脱走していました。
2月20日に、長岡に集まっていた激派は解散しますが、その一部は江戸に出奔し、金子孫二郎や関鉄之介も江戸に潜入します。この江戸に潜入した人たちにより桜田門外の変が起きます。
桜田門外の変勃発
3月1日に金子孫二郎や関鉄之介たちが、日本橋の料亭に会合し、3月3日に桜田門外において井伊大老の登城時に襲撃することとし関鉄之助が現場の指揮をとることを決定しました。
3月1日の決定を受けて、水戸浪士の実行部隊は、決行の前日の3月2日夕刻、品川の土蔵相模に集合し訣別の宴を開きました。
3月3日は五節句の一つである上巳の節句であり、江戸に居る全大名の登城日でした。その3月3日に桜田門外の変が起きました。この日は、大雪でした。新暦でいうと3月24日ですので、春には珍しい大雪ということになります。
「青天を衝け」では、水戸に蟄居していた斉昭が降る雪の中で遊ぶシーンがありましたが、実際に水戸でも、3月3日は雪だったそうです。
3月3日早朝、土蔵相模を出た実行組の浪士たちは、愛宕山の愛宕神社に集合した後、桜田門外に移動しました。
18人は、「武鑑」を手にして大名の登城を見物しているふりをして桜田門外で待ちました。
そして、井伊直弼の一行は午前9時に上屋敷を出ました。
直弼の行列が桜田門外の杵築藩上屋敷前に近づいた時、水戸浪士の一人森が訴状を手にして駕籠訴するような格好で駕籠に近づきました。井伊家供頭郎が近づくと、いきなり切り付けられ深傷を受けて倒れました。これと同時に銃声がなり、待機していた水戸浪士たち、お濠側と反対側の杵築藩松平家上屋敷の塀側から、一斉に直弼の行列に切り込みました。
井伊側も必死に防戦しますが、雪を防ぐための柄袋や合羽に自由を奪われ斬り立てられてしまいます。
そして、直弼の乗った駕籠だけが残りました。薩摩藩士有村次左衛門が、駕籠に何回も突きつけ、そして、直弼を駕籠から引き出し、その首を落としたのです。
直弼は、発射された弾丸によって、腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまっていたため、居合い術の達人でありながら、その居合いを活かすこともできませんでした。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事だったといいます。
井伊大老暗殺の報を受けた斉昭の嘆き
桜田門外の変が起きたことが水戸に届いたのは4日の深夜でしたが、斉昭はこれを聞いて次のように嘆いたことが「徳川慶喜公伝」に書いてあります。
「掃部頭たとえ宜しからずとも、将軍家の御信任厚き宰相なり、それを殺害するとは、不届至極、言語道断の曲事なり、我等敬上謹慎の素意は之が為に滅却せられたりとて、いたく歎息し給へる」

