井伊直弼の「茶歌ポン」(「青天を衝け」47)
「青天を衝け」第9回には、狂言の舞台が出てきました。これは茂山千五郎が演じています。この狂言「鬼ヶ宿」は、井伊直弼が書いた狂言です。
井伊直弼は、「茶歌ポン」と呼ばれました。そのあだ名の通り、「茶道」「和歌」「ぽん=鼓→能・狂言」にそれぞれ堪能でした。そこで、今日は、井伊直弼の「茶歌ポン」について書いていきます。
井伊直弼は、能・狂言に造詣が深く、直弼自身が作った1曲の能と2曲の狂言が残されています。能は「筑摩江(つくまえ)」といい、狂言は「鬼ヶ宿(おにがやど)」と「狸の腹鼓(俗称「彦根狸」)」です。
狂言の二作品は、彦根藩お抱え狂言師であった茂山千五郎正乕(まさとら)に与えられました。茂山千五郎家は天保8年(1837年)から彦根藩の御用となっていました。正乕が彦根藩の演能に出勤していた時、『枕物狂』という秘曲を勤めていた小川吉五郎が途中で倒れた際に、正乕が代役として見事に舞い納めたため、彦根藩に抱えられたといいます。
現在でも、「鬼ヶ宿」と「狸の腹鼓(俗称「彦根狸」)」は、茂山千五郎家にとって特別な曲として扱われています。 「鬼ヶ宿」は、九世茂山千五郎正乕により初演されましたが、それは「桜田門外の変」の数日前だったということです。「青天を衝け」では、茂山千五郎正乕を14世芝山千五郎が演じています。
能・狂言については、既に説明しましたが、直弼は茶道でも一流で、直弼は、江戸時代後期の代表的な大名茶人として知られています。
直弼は、幼いころから茶の湯に親しみ、埋木舎の時代にも茶の湯への傾倒を深めました。直弼は、片桐石州が創始した石州流の茶の湯を学び、弘化2年(1845)には、「入門記」という本を書き、石州流の一派を立てました。
そして、安政4年(1857)「茶湯⼀会集(ちゃのゆいちえしゅう)」を完成させました。その序文には、次のように書かれています。
「此書は、茶湯一会の始終、主客の心得を委敷(くはしく)あらはすなり。故に題号を一会集といふ。猶一会に深き主意あり。柳茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば、幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へは、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、聊も(いささか)麁末(そまつ)なきよう、深切実意を尽し、客にも此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべきなり。是を一期一会といふ。必々(かならず)に主客とも等閑(なほざり)には一服をも催すまじき筈のこと、即一会集の極意なり。」
「一期一会」という言葉はもともとは千利休の言葉のようですが、直弼がこの本の中に書いた「一期一会」から、現在、私たちが使っている「一期一会」という言葉が広がったと言われています。
直弼は、茶会も数多く開いていて、安政3年(1856)40回、安政4年53回、安政5年41回、安政6年23回開いています。(母里美和著「井伊直弼」p167より)。大老に就任したのが安政5年ですので、大老に就任した後も積極的に茶会を開いていることがわかります。
「青天を衝け」で、井伊直弼が、将軍家定に茶をたてる場面がありましたが、十分、その素養は持っていたということです。
また、茶の湯で使用する茶道具を自ら製作しており、蓋置(ふたおき)、花生(はないけ)・水指(みずさし)などは現在も残されていて、彦根城博物館のホームページで見ることもできます。
また、直弼は和歌についても一流で、「桺廼四附(やなぎのしづく)」という和歌集もあります。「桺廼四附(やなぎのしづく)」とは「柳の雫」という意味で、書名は直弼が好んだ柳にちなんで付けられたものです。
彦根城博物館によれば「桺廼四附は直弼が15年以上過ごした埋木舎や江戸で詠んだ歌を勅選和歌集の形式で編集。上冊が春・夏・秋・冬、下冊が恋・離別・羈旅(きりょ)・祝賀・哀傷・雑之部・物名に分類されており、計1030首以上ある」そうです。
【吉田松陰斬首が悪評の原因】
このように文化的素養も十分にあった井伊直弼ですが、悪人というマイナスなイメージが強いように思います。
それは、安政の大獄を行い、多くの人々を処罰したことによるものと思います。
東京大学名誉教授であった小西四郎氏は、中公文庫「日本の歴史19 開国と攘夷」の中で、吉田松陰を死罪に処したことが大きいとしていて、次のように述べています。

「井伊直弼を、外国に屈して違勅調印をおこない、安政の大獄を起こして勤皇の志士を殺した悪逆無道の人間であるというような批判攻撃はどうであろうか。あるいはそれほど強い表現ではないにしても、井伊直弼に対する非難の声は高い。しかし、わたくしは、そうは思わない。当時の志士は、たしかに井伊を悪逆無道の人間と考えたであろう。だが現在のわたくしたちは、もっと客観的に人物を観てゆかなければならないのではなかろうか。
遺勅調印にしても、天皇の意思を絶対視する考えのうえからの発想であり、王政復古史観・皇国史観の立場からいえば、そのような批判も生まれてくるであろう。
勤皇志士の弾圧も同様である。とくに吉田松陰を殺したことが、井伊直弼批判の声を大きくさせていると思う。その教育を受けたものが、明治天皇制下の元勲となり、長州藩閥が形成されたとき、恩師松陰を殺した井伊直弼は、極悪人ときめつけられ、それに対する反論は封ぜられた。
わたくしをして言わしむれば、吉田松蔭を殺したことで、直弼はどんなに損をしたかしれない、遠島ぐらいにしておけば、それほど非難はされなかったのではないだろうかと。」

