斉昭、死去(「青天を衝け」48)
徳川斉昭は、万延元年(1860)8月15日に亡くなりました。 政敵井伊直弼が暗殺されたのが3月3日ですので、安政年間の幕府政治を左右した二人の巨頭が相次いでなくなったことになります。
斉昭は、以前から心臓病のため胸の痛みを訴えることがありましたが、しばらくの間発作もなく食欲も衰えていなかったため周りの人たちは安心していました。しかし、8月15日は中秋の名月ですので、名月を楽しんだ後、心筋梗塞の発作が起きて急に亡くなりました。
斉昭の死について「徳川慶喜公伝」には次のように書かれています。
「烈公は、去(い)にし安政5年7月5日幕譴を蒙りて駒込の邸に謹慎せられ、翌年8月27日更に責を得て水戸城に蟄居し給へるが、今年万延元年8月15日の夜、遽に薨去(こうきょ)し給へり。烈公は甞(かっ)て胸痛を患ひ給ひ、歳余にして平癒せし事ありしが、此に至りて復(ま)た発作したれども、飲啖*1袞へず、精神亦旧の如くなるを以て、近臣・医師も深く憂懼(ゆうく)すべきものとも思はざりき。此日は恰(あたか)も中秋に当り、諸公子と共に月に対して楽譜を閲(けみ)*2し給ひしが、諸公子皆退かれし後、疾(やまい)遽(にわか)に革(あらたま)りしかば、急ぎ執政・重臣を召されしが、夜三更*3遂に正寝(せいしん)*4に薨じ給ふ、年61と聞えたり。胸痛とは今の所謂心臟破裂ならんといふ」p253
*1;飲啖(いんたん)→飲み食い *2;楽譜を閲(けみ)し→閲(けみ)するとは調べるの意味であるので、楽譜を調べるととう意味か(?) *3 正寝→表御殿 *4夜三更 夜を五等分した三番目の時刻、夏の三更は、現在の午後11時頃から午前零時30分頃をいう。
斉昭の死因について、慶喜は、「昔夢会筆記」で質問に答えて、「心臓の破裂」であった次のように言っています。
なお、「水戸市史」によれば、斉昭の死因は心筋梗塞だそうです。
慶喜「お悪いということはなかったが、胸痛があった。15日、ちょうどお夜食が済んだところ、「今日も胸が痛い、今日の痛いのは非常に痛いが」とおっしやったが、それきりであった。それきりすぐに御臨終になった。」
三上(質問者)「 今の烈公様の御胸痛というのは、よほど以前からでございますか。」
慶喜「これはずっと十年も前からだ。ちょっと庭などを御覧になっている時に痛み出すことがある。すると側の者が、体を極めてカ一杯に握り拳を(こぶし)出すのだね。それをずっと押し付けている。ああもうよいと言うと癒ってしまう。」
三上 「今日で申すと、胃の痙攣とでも申しますか。」
慶喜「 いやどうも心臟のようだ。お悪くなったのは心臓の破裂でもしたのかと思われる。どうもいつもにない今日の痛みはきびしいといって、それきりなのだから:::。水戸の篤敬(あつよし)ね、あれがやはりそうだったよ。心臓でおりふし胸が痛い。このくらいの木の先に玉を拵え(こしら)て綿を入れて、痛みが起ると胸を押す。それが日光で:・ 、今日は苦しいと言ってそれきりだ。それを後で医者に聴くと、心臓の破裂だという。誠に同じだ。遺伝というのでもあるまいが、よく似ている。」
斉昭は、8月15日に亡くなりましたが、まだ永蟄居の処分が解けていなかったため、水戸藩主徳川慶篤は、蟄居免除のお願いを幕府に働きかけ、8月26日永蟄居処分が免除されたため、この日はじめて喪を発し、徳川慶篤は水戸に向かい、9月27日瑞龍山に葬むられました。(ワイド版東洋文庫「徳川慶喜公伝」p257参照)
斉昭が亡くなったにもかかわらず、慶喜は謹慎中であったため、父との最後の別れを告げることができませんでした。
まさに「青天を衝け」で描かれていた通りです。
「徳川慶喜公伝」には次のように書かれています。
「此時、公は尚一橋邸にて謹慎中におはしければ、烈公の訃に接し給ひても、親ら駕を枉(ま)げらるることは勿論、使价をだに遣わさるること能わず。一室に閑居し、纔(わずか)に和歌に託して哀慕の懐を述べ給ふ。其一二に日く
あまかけり いづくの空に いますとも 心はゆきて つかへまつらむ
しばしだに 君が教や わするべき おもひなおきそ 露もこゝろを。
なお、「昔夢会筆記」には、次の三首が紹介されています。
泣く泣くも かりの別れと 思ひしに ながき別れと なるぞ悲しき
しばしだに 君が教や わするべき 我になおきそ 露も心を。
今日よりは いづくの空に いますとも 心はゆきて 君に仕へん
最期に、斉昭は暗殺されたという説があるそうで、「水戸市史」に紹介されています。
これは、戦後、世良琢磨が唱えたもので、彦根藩士の小西貞義が水戸に潜入し、斉昭を刺殺したという説です。
しかし、「水戸市史」では、水戸藩に残された史料や彦根藩に残された史料を検討したうえで、「暗殺の影は感じられない」(「水戸市史」中の4p1178)と結論づけています。

