水戸藩の内部抗争(「青天を衝け」49)
今日は、水戸藩の内部抗争について書きます。
水戸藩では幕末に激しい内部抗争がありました。歴史書では、しばしば「内訌(ないこう)」とも書かれます。内訌というのは聞きなれない言葉ですが、辞書を引くと「うちわもめ。内乱。内紛。」という意味だと書いてあります。
水戸藩は、斉昭が生存している間は尊王攘夷派の本家本元と考えられ、全国の尊攘派から敬意を表されていました。
こうした水戸藩が、明治維新の際には、まったく重要な役割を果たせませんでした。これは、水戸藩内で激しい内部抗争があって、有能は藩士がことごとく命をたってしましったためだと言われています。
水戸藩内の内部抗争は、斉脩の世子を将軍家から養子にきてもらおうとする門閥派と弟の斉昭を世継にしようとする改革派の争いにさかのぼるとされています。世子問題は、斉脩の遺言により改革派が推していた斉昭が藩主に就任することとなり、とりあえず結着しました。
藩主となった斉昭は、改革派の人たちを登用して藩政を主導しましたが、斉昭が、謹慎処分を受けると改革派も一緒に処分され、門閥派中心の藩政に変化していきます。
その後、斉昭の謹慎処分が解けると藤田東湖や戸田忠敞(ただあきら)が復帰し、改革派が再び藩政を握ることになりましたが、安政の大地震で藤田東湖と戸田忠敞(ただあきら)が死亡し、改革派は打撃を受けることとなりました。
その後、水戸藩内の勢力図では、藩主慶篤の周辺には門閥派が集まり、斉昭の周辺には改革派の系譜をひいた尊攘派が集まるという図式となっていました。
そして、安政の大獄が始まると、そのきっかけとなった戊午の密勅をどうするかという考えの違いにより尊攘派も鎮派と激派の二派に分かれることとなります。
戊午の密勅には、密勅を諸藩へ伝達するようにという添書がありました。
水戸藩内には、勅諚が水戸藩に降下されたことに感激し、その添書にしたがってこれを諸藩に伝達しようとする意見が強くありました。
その一方で、尊攘派の理論的指導者である会沢正志斎は、諸藩への伝達は、慎重に対処すべきだと考えていました。そして、尊攘派のうち過激な意見をもつ人々が小金宿に屯集するなど行動を過激化すると、彼等への敵対心を強め、密勅伝達阻止の立場を明確にし、小金頓集を激しく非難した、
こうして、安政6年5月頃になると、尊攘派内部は、密勅の急ぎ諸藩に伝達すべきたという金子孫二郎・高橋多一郎等の一派と、これを阻止しようとする会沢正志斎らの一派 つまり激派と鎮派との対立が鮮明となってきました。
このように、天保期の藩政改革を推進した斉昭とその側近藤田東湖・会沢正志斎ら藩政改革派の系譜を引く尊攘派と、これに終始反対の立場を取り続けた保守門閥派との対立に加え、尊攘派が分裂するという新たな事態により、水戸藩内はますます混乱することになりました。
そして、直接行動を唱える激派の人たちは、激しい行動に走ることになり、桜田門外の変、東禅寺事件、坂下門外の変と立て続けに、天下をゆるがす事件を起こすことになります。
今後、「青天を衝け」でも坂下門外の変が描かれるようですが、渋沢栄一も、こうした世間の動きの中に巻き込まれていくことになります。
【天狗派・諸生派の名称】
ところで水戸藩の幕末の尊攘派が「天狗派」、「佐幕派」が「諸生派」と呼ばれます。これについて、「天下の副将軍」(長山靖生著)を参考に、その意味を書いておきます。
水戸藩内の門閥派は、改革派の中心となった軽輩の人々の高慢で議論好きな性質を指して「天狗」と嘲りました。それに対して、改革派の人たちも、俗説に惑わされず天を翔る気概を込めて、自ら天狗派を呼ぶようになったことから、こう呼ばれるようになったといいます。
天狗派の多くは郷校や弘道館で学んだ人たちでしたが、斉昭が失脚してからは、弘道館の学風も変えられ、穏便な朱子学を講ずるようになっていました。そのためもあって弘道館の学生たちは門閥派に組するようになっていきました。
そこで、天狗派の人々は軽蔑の気持ちを込めて、彼らを諸生派と呼ぶようになりました。「諸生」とは「学生」という意味です。
そして、天狗派は、前述のように戊午の密勅の取り扱いをめぐって、漸進的な改革を目指す慎重派の鎮派と、過激な行動に走る激派に分かれ、天狗党の乱では、鎮派、激派、諸生派と三派が三つ巴となって抗争していくことになり、非常に藩政が混乱することになります。

【天狗党に郷士・豪農が参加している理由】
戊午の密勅の返納に反対する人々が長岡宿に集まった「長岡頓集」には、武士だけでなく水戸藩内の多くの郷士や豪農も参加しました。また、後の天狗党の乱においても多くの郷士や豪農が天狗党に加わりました。それについての「天下の副将軍」(長山靖生著)中に注目すべき視点が書いてありましたので紹介します。
「(水戸藩内の)郷士や上層農民には、徳川勢に追われて帰農した佐竹旧臣の子孫が多く、関ヶ原以来、徳川を限んできた長州藩士にも似た心情を抱いている者も少なくなかった。彼らは郷校などで水戸学を学ぶうちに、士分(上層農民の多くも佐竹時代には士分だったという家系伝説を持っていた)としての誇りを回復していた。これは水戸藩が、彼らに海防軍役を担わせるために望んだことだったが、次第に藩庁のコントロールの及ばない段階に入っていた。郷士・農民の出府も相次いだが、彼らの行動は藩庁にも把握するのが難しかった。江戸で幕吏に捕らえられる農民志士も多かったが、彼らが受牢すると、村方で金を出し合ってこれを支えた。当時は、牢内での生活費は自己負担とされていたのである。」(p185.186より)
つまり、長山靖生氏の考えは旧佐竹家の旧臣で秋田に移らず水戸藩領で帰農した人々が幕末に水戸藩上層部に抵抗する行動に出たということのように思います。大変おもしろい考えだと思いました。

