坂下門外の変(「青天を衝け」50)
「青天を衝け」第10回では坂下門外の変が描かれていました。坂下門外の変そのものは短時間で終わってしまいましたが、この坂下門外の変は栄一周辺に大きな影響を与えます。そこで、今日は、坂下門外の変について書いていきます。
坂下門外の変とは、文久2年(1862)1月15日、水戸浪士たちが、江戸城坂下門外で、老中安藤信正(対馬守)を襲撃し負傷させた事件です。
安藤信正は、公武合体策を進め、和宮の江戸降嫁を実現させ、和宮は文久元年11月15日江戸城に到着し、文久2年2月11日には14代将軍家茂との婚儀が行われることとなっていました。
坂下門外の変は幕末の重大な事件ですが、意外にもその経緯等について詳しくかいた書物がありません。その中で、「水戸市史」には詳しく書かれていますので、「水戸市史」に基づいて坂下門外の変の当日の様子やそれにいたる経緯について書いていきます。下写真は現在の坂下門です。
《坂下門外の変》
坂下門外の変で老中安藤信正襲撃を実行したのは、「青天を衝け」で描かれていたのは河野顕三だけでしたが、実際は水戸浪士を中心とした次の6人です。
①平山兵介(旧水戸藩士)、②黒沢五郎(旧水戸藩士)、③小田彦三郎(旧水戸藩士)、④高畠総次郎(常陸国久慈郡小島村組頭)、⑤河野顕三(下野国河内郡の医者)、⑥河本杜太郎(越後国十日町の医者の子)また、当日襲撃に参加する予定であった川辺佐治右衛門(旧水戸藩士)は、同志の襲撃に間に合わなかったため、長州藩邸に赴き、そこで自刃しています。
1月15日は、上元の佳節と呼ばれ江戸に在府していた全大名が登城することとなっていました。その日、五つ(午前8時)の太妓が打ち出され老中たちが登城を始めました。まず久世広周(ひろちか)(関宿藩主)の行列が坂下門外(現在の皇居外苑)にあった安藤信正の屋敷の表門の前を通って坂下門に向うと、安藤信正の行列が安藤邸の登城門から出ました。
安藤信正の行列は駕籠の左に徒士頭、右に刀番を配し、駕籠の前後左右には50~60人の家来が従い厳重に警護していました。
門を出てまもなく、右側の雑踏から訴状を捧げる者がいたので、刀番が受領しようとしたところ、訴状の裏に隠した短銃をいきなり駕籠めがけて発射しました。弾は外れて駕籠わきの松本錬次郎の両股を貫通し、松本はその場に倒れました。この銃声を合図に平山兵介たち襲撃者は左右から斬りかかり両者の激闘が始まりました。
籠訴を企てて発砲した者は、事件後の死体の位置からみて高畠総次郎と「水戸市史」では推測されています。
平山兵介は乱闘の隙に乗じて駕籠の後方に廻り突き刺しました。しかし平山兵介の切っ先は安藤信正の袴腰の上を斜めに傷を負わせただけでした。平山兵介は警護の武士に即座に殺害されました。駕籠から逃れ出た安藤信正は、坂下門内に走り込みました。
これを見た河野顕三が跡を追って背後に迫りましたが、警固の武士に囲まれて闘死しました。「青天を衝け」でも河野顕三が激しく闘う様子が描かれていましたね。
安藤信正は刀番と共に門内に駆け込んで、九死に一生を得ました。安藤信正の傷を治療した奥医師の林洞海・戸塚静海の届書によると、「脊髄に幅一寸、深一寸の突疵と、その上の方に浅疵一箇所、頬に薄疵一箇所の都合三箇所」だったようです。
襲撃した水戸浪士たちは、6人全員が殺害されました。下写真も現在の坂下門です。
《黒幕は大橋訥庵》
この坂下門外の変の黒幕とされているのが、大橋訥庵(とつあん)です。「青天を衝け」でも大橋訥庵が激しく幕府を攻撃する様子が描かれていました。
大橋訥庵は、公武合体に反対し和宮降嫁にも強く反対し、王政復古をめざした策を建言し京都の三条実愛に勅諚の降下を要望する運動を展開していました。また、同時に外国人を襲撃する策も計画しました。しかし、外国人襲撃計画に参加する攘夷派の志士が期待どおりに集まらないため、水戸の尊攘激派との提携を考えました。さらに、弟子の長州藩士多賀谷勇が計画した日光輪王寺宮擁立運動にも加わりました。しかし、この計画には水戸藩士が全く参加しなかったため期待するほどの参加者が集まらず輪王寺宮擁立運動は中止となりました。
そこで、大橋訥庵は、水戸藩の尊攘激派の人々が主張する安藤信正襲撃を共同して実行することになりました。
安藤信正襲撃計画は、当初は12月15日に実行する予定でしたが、計画が不十分なため12月28日に延期されました。しかし、期日が近づいても水戸浪士の到着が遅れていることなどから、大橋訥菴は、襲撃決行の期日を12月28日から翌年1月15日に再び延期しました。そして12月26日の打ち合わせで、安藤信正を襲撃する者は水戸側から平山兵介・黒沢五郎・小田彦三郎・高畠房次郎・川辺佐次衛門の5人と、宇都宮側の河野顕三・横田大介の2人、さらに大橋訥庵の門人である伊予大洲脱藩士得能淡雲の合わせて8人となりました。
このうち、高畠房次郎・川辺佐次衛門は再び水戸に戻り、その他の人々は一旦宇都宮に潜伏することになりました。翌年1月8日平山兵介・黒沢五郎・小田彦三郎・河野顕三の4人が宇都宮を出立して江戸に潜行し襲撃実行の準備に入りました。
《大橋訥庵、逮捕される》
安藤信正の襲撃が実行される直前に大橋訥庵が逮捕されると予想外のことが起きました。
もともと、文久元年12月26日の打ち合わせの際には、安藤信正襲撃の計画と同時に、一橋慶喜を擁して日光山に拠って、尊王攘夷のために挙兵するという計画も取り上げられました。
そこで、その策に賛同していた大橋訥庵は、慶喜への周旋を依頼されたため、建白書に加筆し、1月8日にかつての門人で一橋家の近習番である山木繁三郎を訪れて、その建白書の取次を依頼しました。
依頼を受けた山木繁三郎は事の重大さに驚いて用人に告げ、用人はこれを幕府に伝えたため、南町奉行黒川備中守盛泰によって、大橋訥菴は12日の夜半に逮捕され、養子大橋陶庵も13日早朝に捕えられました。そして、小梅の思誠塾も家宅捜索が行われ、家財一式は土蔵に納められ封印されました。
「青天を衝け」では、慶喜が大橋訥庵の献策を読んでいましたが、逮捕されるであろう人物の献策を読んだかどうか微妙ではないかと私は思っています。
黒幕の大橋訥庵が逮捕されたのですから、安藤信正襲撃計画は探知され未然に阻止されるところですが、大橋訥庵の妻巻子は、事前に逮捕されることを予想して、あらかじめ証拠となる重要な文書類を破棄もしくは隠匿していました。そのため、幕府は厳重な探索をしたにもかかわらず、安藤信正襲撃計画を未然に探知することが全くできませんでした。
水戸浪士たちは、大橋訥庵逮捕の報を受けて、一刻も猶予がないと判断し、再延期されていた実行期日の1月15日に予定通り安藤信正襲撃を決行したのでした。
【4月23日】追記
坂下門外の変について追記しました。下画像をクリックすると当該ページになります。