尾高長七郎と坂下門外の変(「青天を衝け」51)
「青天を衝け」第10回で、大橋訥庵に高く評価され安藤信正襲撃に加わるよう強く言われていた尾高長七郎が血洗島に戻り、栄一、尾高惇忠、喜作の説得により、坂下門外の変の実行者になることをあきらめる場面がありました。これは史実です。
「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」には、このことは書いてありませんが、「渋沢栄一伝稿本」の中でかなり詳細に書いてあります。原文そのままだと長いうえ明治の文体ですので、現代文に直し要約して紹介します。
「水戸藩の志士は、大橋訥庵等と協同して安藤信正襲撃の陰謀を企てました。この頃、尾高長七郎の名声は漸(ようや)く志士の間に高くなり、四方の壮士の長七郎を訪ねて相談する人が少なくなかったが、長七郎は、ちょうどその時にやってきた長州藩の多賀屋勇と一緒に輪王寺宮公現親王を奉じて兵を日光山に挙げようと企て、文久元年10月二人そろって水戸に行き、原市之進に声をかけたけれども原が応じなかったので、宇都宮に菊池教中(大橋訥庵の義理の弟)を訪ね、さらに大橋訥庵を江戸に訪ねて賛同するよう誘いました。菊池教中はすぐに同意しましたが、大橋訥庵は安藤襲撃の計画が熟そうという時期であるので、この策は賛成できないとして菊池教中を強く制止したため、長七郎等の計画は挫折しました。こうして安藤信正襲撃の期日を決める時期になり、大橋訥庵の門人岡田真吾 (宇都宮藩士)等は、別に一橋慶喜を擁して日光で挙兵するという策を計画し、大橋訥庵の助力を依頼したところ、図らずも幕府の知る所となって、文久2年正月12日大橋訥庵が捕縛されてしまいました。そこで、大橋訥庵の同志は約束通り、1月15日安藤信正を江戸城の坂下門外に襲い負傷させました。幕府は大変驚いて大橋訥庵と交遊していた志士を探して捕縛し、その数は十余人になりました。」
ここまではおおむね「水戸市史」に書いてあった経緯と同じです。この後に「青天を衝け」で描かれていたシーンについて、書いてあります。
「幕府に捕縛された中には多賀屋勇もいましたが、長七郎は初め、多賀谷勇と一緒に水戸・宇都宮・江戸の間を奔走遊説して輪王寺宮擁立の策を講じていましたが、その計画が絶望的になったため、大橋訥庵等の計画した安藤信正襲撃の計画に参加しようと考えて郷里血洗島に帰って、この考えを兄の尾高惇忠に相談しました。尾高惇忠はすぐに栄一と渋沢喜作を呼び寄せ密かに相談しました。長七郎の話を聞いて全員が安藤信正襲撃に参加するのは良くないと言い、「今日一人の安藤閣老を除きたりとも、これに代る者は幾人もあるべく、かつ襲撃によりて幕議を攘夷論に導かんこと覚束なし、むしろ他の方法を選びて攘夷の実行を期するに若かず」という結論に達しました。
そのため、長七郎は、尾高惇忠や栄一・喜作のしばらくは姿をくらましたほうがよいという警告を聞き入れて、上州佐位郡の国領村に潜みました。こうして坂下門外の変が起き、幕府が大橋訥庵の同志が探知・捕縛に動き出した時には、長七郎は既に血洗島からいなくなっていて、捕縛されるのを免れました。」
「青天を衝け」のシーンは、まさに「渋沢栄一伝稿本」通りです。下写真は、現在の「尾高惇忠生家」です。ここで安藤信正襲撃に参加するかどうかを相談したのではないかと思います。

こうして、尾高長七郎は血洗島を離れますが、この後、坂下門外の変が起きたことを知らない尾高長七郎は江戸に戻ろうとします。この後のことを書くとネタバレとなりますので、今日はここまでにしておきます。

