栄一、江戸に遊学(「青天を衝け」52)
「青天を衝け」第10回で、栄一が市郎右衛門に無理やり頼み込んで江戸に遊学しました。それにっいて、栄一は「雨夜譚(がたり)」の中で次のように語っています。(読みやすいように原文の一部を変えてあります)
「自分が読書の指南を受けた尾高惇忠の弟に、長七郎という人があって、自分よりは2つ年長で、大兵の上に腕力もあり、また撃剣においては、非凡の妙を得た人であったから、撃剣家にするというので、その以前から江戸へ出ていたが、これも折々江戸から友人の書生を連れて来て、しきりに慷慨(こうがい)憂世(ゆうせい)の談論をするというありさまであった、さなきだに下心あることだから、自分もついに22の年に、内心ではこのまま田舎に百姓をしているられないという覚悟をしました、その頃、長七郎が下谷練塀小路の海保という儒者の塾にいて、そうして剣術遣いの所へ通っていたから、それをたよりに、どうか自分も江戸へ出たいと言った。ところがその時には、父がよほどやかしく小言をいって、今この商売を打捨てて、書物を読むために、家の事を粗略にしては困る、そういう了見では、まだ安心が出来ぬという意味で、おおいに教誡(きょうかい)されたけれども、自分は、永く江戸にいるつもりはない、ただ春先き農業の閑暇(かんか)に、少しは本も読みたいという考えであるといって、強いて請求してとうとう父の許しを受けたから2か月余りも江戸に出て、海保章之助という儒者の塾に這入っていった、その真意は、とうてい百姓をしている時節でないという考えで、すなわち17才の時に発した念慮が増長した訳で、それについては、世にはだんだん名ある人もあることだから、広く当世の志士に交遊して、議論も聞きたく、または実際に当世の模様も見たいという志がますます熱くなって来たのである、こういうと思慮もよほど周密のように聞えるが、その実は、山気がおいおい高ぶって来たというのでありましょう。さて海保の塾へ入学してから、両三日を経て孟子の講釈をやらせられた時には、大勢の書生に笑われて、赤面して両腋から汗を出したこともあり、またその後にも塾則を破って、先生に叱られた事もあったが、もとより自分の念慮は、あえて書物を充分に読もう、また術を上達しようという目的でない、ただ天下の有志に交際して、才能芸術のあるものを、おのれの味方に引入れようという考えで、早く言って見れば、かの由井正雪が謀反を起す時によく似ていた、その中に世の中はますます騒々しくなって来て、いろいろの出来事もあったが、それは近世歴史などに書いてあるから、それを読んでみればくわしく分る事だによって、今ここで一々これを話しませぬ、かくてその歳の5月頃まで海保漁村の塾に居て、しきりに書生連に交際したが、またお玉が池の千葉という撃剣家の塾に這入て、剣客の懇意を求めていた、その訳は、今申す通り、読書撃剣などを修行する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を選むで、ついにおのれの友達にして、そうして何か事ある時に、その用に充る為めに、今日から用意しておかねばならぬという考えであった。」
「青天を衝け」では、栄一も大橋訥庵の思誠塾に出入りしているように描かれていましたが、「雨夜譚(がたり)」を読む限りでは、海保漁村の塾で学び、千葉道場で修行していました。ただし、勉強するより志士たちの交流を第一に考えていたようです。
千葉道場とは、有名な千葉周作が開いたお玉が池の千葉道場(玄武館)のことです。栄一が修行した頃は、もちろん千葉周作は亡くなっていて、この頃の道場主は、千葉周作の次男で「千葉の小天狗」と呼ばれた千葉栄次郎でした。
一方、栄一や長七郎が学んだ海保漁村は、あまり知られていませんが、現在の千葉県山武郡横芝光町で生まれ、江戸で大田錦城に学んだ後、下谷練塀小路(現在のJR秋葉原駅東口近く)に塾を開き、「屈指の大儒」(優れた学者の意)と呼ばれた儒学者です。この海保漁村について、栄一は「青淵回顧録」の中で、人物紹介をしていますので、紹介しておきます。
ー海 保 漁 村 の 人物ー
海保漁村は寬政10年11月上総国北淸(ほくしん)村に生れた。父は修之、恭齋ど号した。3歳の頃より書を讀み終日惓(う)まなかったが、長するにおよんで読書欲がますます高じ、兩親が健康を損(そこ)ねては取り返しがつかぬと心配して止めると、兩親の目を忍んで勉強するという有樣だったので、ことさらに隣り村まで使いに出すと、少しも逆(さか)らはすに用を弁ずるのが常だったが、その往復は必らず駈け足をし、帰宅するとまた直ちに書を読むという風であった。12歳の時に勉学のため初めて江戸に出たが、江戸はあまりに騒々しく深思(しんし)推稿(すいこう)を専(もっぱ)らにする事ができないので、江戸にいること數ヶ月にして鄕里に帰り、その後は専(もっぱ)ら独学を以て研鑚(けんさん)した。22二歳の時再び江戸に出たが、学資がないので当時幕府の御典医だった多紀桂山(元簡-もとやす)の執事となり、余暇を見ては勉学に怠りなかった。桂山は大いにその篤志に感じ太田錦城の門に通学せしめたが、その頃、昼間は錦城の許に往く外は主人の用務がすこぶる多忙なので、夜間を勉学の時間と定めていった。ところが夜半後は家内の燈火はことごとく消す習わしなので、貧乏な彼は油を買う錢がないため、密(ひそ)かに街路に出て常夜燈(じょうやとう)の下に立って書を読むのを常とした。かくの如く苦学した甲斐あって才識人に優れ、師匠錦城をして感動せしむるに至り、途に錦城門下の高足と称さるるようになった。そこで錦城は漁村にすすめて下谷練塀小路に塾舍を開かしめたが、号して「伝経廬(でんけいろ)」という。漁村が塾舍を開くや、その門に学ぶものすこぶる多く、その名声一時に高まり、天保11年「周易古占法(しゅうえきこせんぽい)」を著すや、大いに識者の推称するところとなりて、これより諸侯伯のために賓礼(ひんれい―賓客として厚く遇すること。)せられ、日野大納言もまた大いに敬愛せられた。慶応2年9月12日、69を以て没したが、その門弟數千に及んだという。
海保漁村は、天保14年(1843)に佐倉藩主堀田正睦に招かれて経書を講義し後に佐倉藩校成徳書院の儒者となり、さらには、安政4年(1857)には幕府医学館の儒学教授にも任命されています。

