坂下門外の変②(「青天を衝け」)
坂下門外の変について先日は「水戸市史」に基づいて説明しましたが、「宇都宮市史」も詳しく書いてあります。
「宇都宮市史」の中に、坂下門外の変の当日、事件の現場に居合わせ、その様子をすぐ近くでまざまざと見た松平家の家臣粕尾氏の談話を記した写本「坂下御門外一件」が載っていて、坂下門外の変がどのように展開していたのかがわかりますので、今日はそれをご紹介します。
現代風に書き換えて紹介しますので、原文をお読みになりたい方は「宇都宮市史第6巻近世通史編」p477をご覧ください。
「1月15日粕尾氏が供侍(ともざむらい)として坂下門外に控えていたところ、おおよそ10間余りを隔てて侍風の者が3人、惣髪の者が1人、足軽風の人が1人、坊主の姿をしていた者が1人やってきました。道に敷布をしいて全員が懐から何やら小冊子を取り出して、半分股立ちを取って、藁草履(わらぞうり)を前に置いて、取り出した小冊子を余念なく読んでいました。坊主風の者は、侍風の者と懇意の様子で何か時候の話などして、あちこち歩きまわっていました。その時、西丸で四ッ時(午前10時)の太鼓が打出されました。老中がまもなく登城をはじめ久世大和守(広周)に続いて、安藤対馬守(信正)が坂下門通りへやってきたところ、かの供侍風の中で一人が、(鉄砲を所持しているようには見えなかったが、袖の中から打出したのかもしれないが)鉄砲を打掛けました(※1、この人物は、越後出身の川本壮太郎)。それに続いて、坊主風の者は短筒を置いて風呂敷包から脇差を取出して身に着けて脇差と刀を掴んで駕籠を目掛けて切込みました(※2、坊主風の者は水戸浪士の平山兵介)。(襲撃者)一同は刀を抜き行列の中に切こんでいきました。あの坊主風の者は、安藤対馬守の供と渡り合って戦っていました。あの鉄砲を打掛けた侍風の者は、同じく烈しく戦って、駕籠の側に切込んでいきました。この騒動の最中でも大和守は籠を出でて事件には関係なく登城致していきました。供の内一人は顔面と肩先にも大変な傷を受け、全身血まみれになりながら対馬守を守護し、坂下御門に切掛かったところ、襲撃者は続いて切込んだようすでしたが、大勢の供回りが前後左右より取り囲んで、電光の如くに切立てたので、襲撃者たちは切り伏せられたように見えました。但し坊主風の者は脇差で大勢の供を相手に攻め、粉骨砕身戦っていましたが、脇差を落して深手を負ったように見えました。大和守の供からおおよそ五人ばかりが助太刀のため戻ってきて、対馬守の供側に加わりましたが、襲撃者たちはほとんどが命を落とした後であったため、戦う必要はなかったようでした。」
宇都宮市史には、坂下門外の変に関係して逮捕された人たちの処罰についても説明されています。
文久2年(1862)1月12日に小伝馬町牢屋敷に投獄された大橋訥庵は、近親者や宇都宮藩からの赦免運動が行われ、ようやく7月7日に宇都宮藩邸に引き取らました。しかし、出獄後数時間にして激しく苦しみだしました。妻の巻子や門人たちが看護に勤めましたが5日後の7月12日に亡くなりました。
出獄後、急に苦しみ出したことについて、宇都宮市史には「出獄に際し、幕吏が毒を盛ったのではないかとの疑いがもたれている。」と書いてあります。
また、大橋訥庵の義弟菊池教中も7月25日に出獄し宇都宮藩に預けられたものの8月7日急に苦しみ出し8日に亡くなりました。教中の死因について宇都宮市史は特に言及していません。
坂下門外の変に関して、投獄された同志は10人となりましたが、4名が獄中で死亡し、出獄後まもなく死亡したのが大橋訥庵・菊池教中の二人、無事に生き延びることができたのは4人に留まりました。ちなみに大橋訥庵の妻巻子と養子陶庵は無罪とされました。
大橋訥庵は、谷中天王寺の墓地に埋葬されています。そして、大橋巻子と大橋陶庵は、大橋訥庵の横に眠っています。下写真の左が大橋訥庵、右が大橋巻子の墓です。(下写真)


