「青天を衝け」第11回の冒頭は、栄一が長七郎を助けるシーンでした。
栄一は、長七郎が江戸に向かったという話を聞くとすぐに血洗島を発って熊谷に向かいました。それは、幕府が坂下門外の変に関係した人々を捕縛しようとしている状況下、長七郎が江戸に向かえば「飛んで火に入る夏の虫」となり、必ず捕縛されると考えたからです。
血洗島を夜10時ごろに発っています。血洗島から熊谷宿まで四里(約16キロ)の距離があります。現在でも約4時間かかりますので、栄一が熊谷についたのは、午前2時ぐらいでしょう。
そこで、無事、長七郎と会うことができ、坂下門外の変に関係した人々が捕縛されているという危機的状況を長七郎に話して、江戸に向かわず京都にいくよう説得し、その話を聞いて長七郎は京都に向かうことになりました。
その時の状況を栄一は「雨夜譚(がたり)」で詳しく語っていますので、それを紹介します。
「正月十五日に、老中安藤対馬守の登城先を、河野顕三などが、坂下門外に待受て斬りかけた、その事に連累して、大橋訥庵が捕縛になって、尾高長七郎もまた嫌疑を受けたが、長七郎はその時田舎に来ていたから、田舎までも逮捕の沙汰があるということを、自分が聞込んだけれども、長七郎はかえってそれを知らずに、江戸へ出るといって、既に出立したということだから、自分はひとかたならぬ心配をして、その夜の十時頃から宅を駈出して、四里程隔ている、熊谷宿まで追っ掛けて、ようやく長七郎を引留めて、さて貴契(きけい)は知らぬ様子だが、坂下連中は、その場に出もせぬ児島恭助(強介)までも縛られた程だから、この田舎ですら、実は危険千万に思ふ矢先である、しかるに嫌疑を蒙っている貴契の身として、この場合に江戸へ出るというは、あまり無謀な話しで、自から死地に就くも同様だによって、この処から方向を換えて、一刻も早く信州路から京都を志して、しばらく嫌疑を避けるのが上分別であらう、と忠告して直ぐに京都の方へ落して遣ったが、それというも、一ツには京都の形勢はどうであるか、かたがたその様子も聞きたいという考えもあったのである。(中略)、それゆえ、幕府の嫌疑を避けながら、長七郎に京都行を勧めて遣(や)ったのでありました。」
この時の様子をより詳しく書いてあるのが塚原蓼洲が書いた尾高惇忠の生涯や業績を記した「藍香翁」です。その中で、熊谷宿での栄一と長七郎のやり取りが書かれています。「藍香翁」原文は、明治の文体で難しいうえ少し長いので二人の会話部分以外は現代風に変えて簡略にしたうえで紹介します。
「栄一はすぐに家を出でて、走りに走り、熊谷に、夜明け前に着きました。すると戸を開けたばかりの家が一軒ありました。これが長七郎が定宿としていた小松屋でした。そこで、栄一は、長七郎がいるかどうか聞こうと思って中に入ると長七郎がちょうど上框(あがりかまち)に腰掛けて、今まさに草鞋の紐(ひも)を結ぼうとしていました。
※「青天を衝け」で栄一が宿屋に飛び込むまでのシーンはまさにこの通りだと感じました。宿屋の名前までしっかりと「小松屋」となっていましたね。
(これ以降は、二人のやりとりが詳しく書いてありますので、極力原文に沿って書いてみます)
栄一 『東寧(長七郎のこと)、何(ど)うした!』
長七郎『おぉ君は?』
栄一 『君はじや無い。貴公不知(しら)んか?』
長七郎『えぇ? 不知(しら)んとは、何を知らんか?』
逆旅(逆旅:宿屋という意味)の店頭、幸いに人はいらざるもなほなにをか語らるべき。
栄一『いや些(ち)と用事じや。まあ戸外(おもて)へ一所に……。』(そうして木陰で)
栄一『不知(しら)ぬかい! 大橋も縛られた、小島も捕(や)られた。安対(あんたい:安藤対馬守のこと)は15日に坂下で傷を負(う)けて、三島を初め6人というものはその場で討れた。で江戸の騒動(さわぎ)はまるで火の様だ。その中へ貴公のそのそ出かけてみい、すぐに捕まる。自ら求めて飛蛾(ひむし)になるも同様だ……。』
この意外なる報告には、さしもの長七郎もただ目を瞪(みは)るのみ。栄一は重ねて、『手計(尾高家のこと)でも君の身については非常に心配をしておられるで。先生(尾高惇忠のこと)の考えでは、暫時(しばらく)君を信州へ落したいと言う事だ。それも本道(大きな街道の意味)からは危険(あやふ)いから、間道を選んでとの談であった。』(以上が二人のやり取りです。)
こうして、長七朗も事情を理解し栄一の案内で妻沼に向かい、そこでこれからのことを相談して、長七郎は信州の佐久郡下県村(しもあがた)の木内芳軒の家に2ヶ月ほど潜んだ後、京都にむかいました。
木内芳軒は、信濃国佐久郡下県村(現在の佐久市)に住む学者で漢詩人でもありました。栄一は、信州に藍玉の商売に行った際に知り合ったようです。木内芳軒について、栄一は大正6年5月15日の信州小諸での講演で次のように語っています。
「私は農業の暇に藍玉を商売しておりまして、御当地にも、なお南佐久にも、もしくは小県にも各地方を巡廻いたしまして、取引上の友達も沢山ございましたが、多少文学を好みましたために、千曲川の南辺でございましょうか下県という所に木内芳軒という人がありました。既に故人になられましたが、この人は詩作を巧みになさいまして、その遺稿もなお存しているようでございます。これらは最も記憶に留っている御一人でございます。」

