栄一と藤田小四郎(青天を衝け56)
「青天を衝け」第11回で、栄一が藤田小四郎と出会うシーンがありました。栄一と藤田小四郎が出会うなんてあまりにも意外なので、このシーンは創作だと思った方もいるかもしれません。しかし、これは実話に基づくものです。
藤田小四郎は、「青天を衝け」で紹介されていたように藤田東湖の子供で、母は妾で「とき」と言いましたが、小四郎が2歳の時に母は離縁されました。「小四郎」という名前の通り藤田東湖の四男です。長男は夭逝し、次男・三男は凡庸であったため、東湖は小四郎をかわいがり、茅根伊予之介や原市之進につけて学ばせました。しかし、「青天を衝け」での回想シーンの通り、小四郎が12歳の時、東湖は安政の大地震でなくなってしまいました。
栄一が小四郎と出会ったのは、文久3年(1863)の秋でした、栄一は、「実験論語処世談」と「東湖会講演集」の中で、当時の思い出を語っていますが、出会ったのは、水戸屋敷近くの鰻屋だったそうです。その時の印象を栄一は「実験論語処世談」で、「22歳にしては実に能く気の付く賢い人だと思ったのである。」と語っています。
出あった際の会話のやりとりは、「東湖会講演集」のほうが詳しいので、それを紹介しておきます。
「その時の談話に私は頻りに尊王攘夷を唱へて水戸藩の人々をむしろ鼓舞刺激する了見で、『われわれ農民が別に縁故の無い身柄でありながらも、国家の大事と思うてかくの如く身を捨て事にあたろうという赤誠を有しているのに、水戸は代々勤王を唱へ大義名分の明かなる藩風でありながら、ことに東湖先生のごとき巨人もある。しかも貴下はその御子である。しかるに何もなさずに単に議論ばかりしていては相済まぬではないか―』というようなことを論じたのであります。
しかしこの会談は決して攻撃的の議論ではなく、ともに世を憂へ時を慨する酒間の時事談であった。小四郎氏はその時既に筑波挙兵の下心はあったかどうか、とにかく未だ確定せられなかったような感覚が私に残っております。
いろいろの談話の末、小四郎氏は私に対して、『君方はわれわれを水戸藩だから何かなせるだろうと容易(たやす)く希望せらるるけれども、君方が民間にあってなせぬと同様に、水戸藩士だといっても天下の大事を左様に軽易(けいい)になせる筈はない。』と言ったような弁解的の言辞があったように覚えております。しかし他日必ず何か発表するから見給え、国家のため必ず報いる事あるべしと言うような、堅い決心が酒間談笑の裏に蔵せられてあったように思います。」
これを読んでみると、栄一と藤田小四郎とが会ったのは史実ですが、「青天を衝け」のように激高するような場面はなかったようです。しかし、栄一・喜作と藤田小四郎の栄一・喜作と藤田小四郎のやりとりは劇的で印象に残る場面でした。
ところで、栄一が語る最後の部分(赤字部分)のように、この後、藤田小四郎は、元治1年(1864) 3月筑波山で挙兵し、水戸藩の門閥派や幕府軍と戦い、さらに京都にいる慶喜に会うために西上します。いわゆる「天狗党の乱」です。これらについては、今後の「青天を衝け」でも触れられると思いますので、その際に、また書かせていただきます。

