栄一、父に勘当を乞う(「青天を衝け」57)
「青天を衝け」第11回で、栄一が父市郎右衛門に勘当をお願いするシーンがありました。
横浜焼き討ち計画が煮詰まって決行日がその年の冬至である11月22日と決まった段階で、栄一は、家族に迷惑をかけないように勘当をお願いしようと考え、9月13日の「後の月見(十三夜)」を利用して市郎右衛門と一晩話し合いました。
この時のことは栄一にとってとても印象的だったようで、「雨夜譚(がたり)」では、丁寧に語っています。
「青天を衝け」のシーンは実話が基になっていますが、創作と思われる部分もかなりありましたので、まず、栄一がどのように語っているか見ていこうと思います。※「雨夜譚(がたり)」では、かなり長く書かれていますので、必要な部分のみ引用します。詳しく知りたい方は岩波文庫「雨夜譚」p38~41をご覧ください。
「雨夜譚(がたり)」で、栄一は次のように語っています。
「さてだんだんとその時日の迫って来るにつけて、よそながら父に決心のほどを知らせたいと思って、その年の9月13日は、後の月見といって、田舎では観月の祝いをする例があるから、その夜、尾高惇忠と渋沢喜作の両人を、自分の宅に招いて、父も同席で世間話しをするうちに、それとなく自分の一身を自由にすることの相談を始めた。全体自分の企望するところは、父からこの身を勘当して貰うという覚悟であったが、さればといって、子が親に向って、突然勘当して下さいともいわれぬものだから、まず世の中の起き伏しから、話しの緒(いとぐち)を開いて・・・
(この後、父子のやりとりの経緯が詳しく語られていますが、長いので、そこの部分を省略します)
その問答はなかなか長いことで、ついに夜が明けてしまった。もちろん、自分はあえて議論がましく、むやみに父に反対して、高声に討論した訳ではなく、ただ諄々(じゅんじゅん)と論じている中に、夜が明けた。すると父は思いきりのよい人で、夜が明けてから『もう何も言わない、よろしい、そなたは乃公(おれ)の子じゃないから、勝手にするがよい。だんだんの議論で時勢も能く分ったから、そういうことを知った上からは、それがその身を亡ぼす種子(たね)になるか、あるいはまた名を揚げる下地になるか、そこは乃公(おれ)は知らぬ。よしや時勢が十分に知れても、知らぬ積りで、乃公(おれ)は麦を作って農民で世を送る。たとい政府が無理であろうとも、役人が無法なことをしようとも、それには構はずに服従する所存である。しかるにそなたは、それが出来ないというなら仕方がないから、今日からその身を自由にすることを許して遣(つか)わす。それについては、もはや種類の違う人間だから、相談相手にはならぬ。このうえは、父子それぞれその好む処に従って、事をする方がむしろ潔よいというものだ。」といわれて、ようやく14日の朝になって、一身の自由を許されました。」
その後、栄一は勘当についてお願いをしたと語っています。
「『父母に対してはこの上もない不孝な次第でありますが、とうていこの家の相続は出来ませぬから、速かに自分を勘当して、跡は養子でも御定め下さい』と申しましたら、父の言われるには、『今突然勘当といっても、世間でも怪しむからともかくも家を出るがよい、いよいよ出たのちに勘当したということにしよう。また養子の事は、その後でも遅くはないと思う。』ということで、当面勘当はないということになりました。
以上が「雨夜譚(がたり)」です。「青天を衝け」では、いくつか「雨夜譚(がたり)」とは違う描き方になっていることがわかると思います。
①「青天を衝け」では千代が同席して、最後には一緒にお願いしているが、「雨夜譚(がたり)」では、千代は同席していないこと。②実際は同席していた尾高惇忠と喜作が「青天を衝け」では同席していないこと。③「青天を衝け」では勘当を最初から言いだしているが、「雨夜譚(がたり)」の中では、一番最後に切りだしていること。④「雨夜譚(がたり)」では、一晩をかけて市郎右衛門と話しているが、「青天を衝け」では、一晩をかけてはいないように思われることなど。
こうした点などが実話とは違うようですが、当然「青天を衝け」はドラマですので、創作部分があっていいと思います。人生の重大な岐路にたった場合、家族のみんなと話し合うということは、当然ありうる話だと思います。この後、栄一は、横浜焼き討ち計画を断念し故郷を出奔することになります。そのため、この夜の話し合いは、栄一にとって重大な岐路であるとともに栄一の家族にとっても重大な岐路だったと思います。こう考えると、「青天を衝け」のように家族全員で話し合うというドラマの流れがあっても良いと思います。「青天を衝け」では、栄一の真剣さ、市郎右衛門の悲しみを抑えたうえでの男の強さ、千代のけなげさ、そして家族の心配そうな様子が描かれていて素晴らしいシーンだったと思います。
なお、渋沢栄一を描いた代表的な小説には、「激流」(大仏次郎著)、「雄気堂々」(城山三郎著)、「小説渋沢栄一」(津本陽著)があります。
この三つの小説で、栄一が勘当を申し出る場面がどう描かれているか確認しましたが、いずれも「雨夜譚(がたり)」の通りの流れで書かれています。ただ、「青天を衝け」で市郎右衛門が「10歳若返ったつもりで頑張る」と話していましたが、「小説渋沢栄一」(津本陽著)の中に、その言葉が書かれていました。
【5月6日追記】
「青天を衝け」では、千代が栄一と一緒に市郎右衛門にお願いをしていましたが、実話では、千代は歌子を産んだばかりであって、市郎右衛門と栄一の話の場にいませんでしたので、「青天を衝け」のシーンは創作ということになると思います。
歌子が母の思い出を書いた「はは その落葉」では、「去(い)ぬる[後の月見]の夜よもすがら父君と打かたらい給いし折は。いまだ産屋にありてふしどをはなれざりしかば。談(かた)らい給うことのよしは承らんようもなかりしかど、その事がらは押しはかりて知り侍りつれば。ひとり泣きつつ長き夜をまどろみもせであかしにき」と書いてあります。

