渋沢家の財力(「青天を衝け」58)
栄一は、高崎城乗っ取り・横浜焼き討ち計画実行のため、江戸で武備を調達しましたが、そのためのお金は、藍玉の販売代金から一部を融通したものです。
のちに高崎城乗っ取り・横浜焼き討ち計画を断念して血洗島を離れる際に、そのことを白状するまで、このことにっいて市郎右衛門は気が付きませんでした。
「雨夜譚(がたり)」で栄一が次のように語っています。
「先程申した通り、既に暴発をしようという考えからして、やむことを得ず、藍の商いに取扱った金の内で、あるいは刀を買ったり着込みを作ったり、そのほか、種々の事に使用したから、このことを後に父に打明けて、ドウカ許容して下さいといった。その金高は凡そ百五六十両ばかりであった。しかし一身の遊興に金銀を費すということは、これまで一切なかったから、父もこの事を許諾して、それはやむことをえないから、家の経費と見做(みな)すといわれました。」
150両というお金は、現在の価値に換算した場合、1両を10万円とすれば1500万円、1両を15万円とすれば2250万円となります。
これほどの大金を融通しながら市郎右衛門に気が付かれないということは、よくよく考えると不思議なことです。
この理由は2つ考えられます。一つは、横浜焼き討ち計画の時は、もう栄一は数え年で24歳になっていて、十分、家政を任せられる歳ですので、栄一が市郎右衛門に非常に信頼されていて、細かい金銭の出納はチェックされなかったということです。
もう一つの理由(これが今日の本題ですが)、渋沢家の財力が膨大であったので、市郎右衛門が150両程度の金額にはあまり頓着しなかったかもしれないということです。
市郎右衛門は、藍玉の販路を、武州秩父、上州、そして信州まで開拓していました。
この藍玉の販売代金がどのくらいであったのか、日本史リブレット「渋沢栄一 近代日本社会の創造者」(井上潤著)で試算されています。

それによると、取引先や年により差があるが、最高売上高は五八五両、最小売上高が五両二分となっているので、それを単純に1軒で100両の取引として、信州に約50軒の取引先があったので、中の家(なかんち)全体で100軒と取引があったと仮定すると1年間で1万両の売り上げがあったことになると試算しています。(p8より;なお、この試算は、「日本の企業家 渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー」(宮本又郎編著)p215にも引用されています。)
1年間の売り上げが1万両ということは、現在価値で1両を10万円とすると10億円の売り上げがあったということになります。現在でも個人経営で年10億円のある家は相当裕福な層になります。
年間1万両もの金を動かしているわけですから、渋沢家は相当の財産家であったということです。ですから、栄一も150両は、容易に融通できたのでしょう。
そこで思い出すのが、栄一が幕府が悪いという考えを抱くきっかけとなった岡部藩から御用金500両を差し出すように言われた件です。この時、中の家(なかんち)が500両の御用金を命じられて、「泣くこと地頭には勝てない」といいながらも、市郎右衛門が即金で500両を差し出したことです。
普通の百姓であれば500両を提供するなんてなかなかできないことですが、それができたことということを裏返せば、中の家(なかんち)の財力がそれだけあったということを物語っていると思います。
そして、前述の通り、栄一はお金の融通を白状しましたが、その後で、血洗島を去る際に市郎右衛門に百両をお願いしたことが「雨夜譚(がたり)」に語られています。
「それでまた京都へ立とうという時に、再び家へ帰るか帰らぬか知れぬから、もし困ることがあってはならぬ。金がいるならいくらでも持ってゆけ、また向うへいった後も、この身代はその方の身代だから不道理の事に使わぬ以上は、決して惜しみはせぬから、入用があったら必ずそういってよこせ、送って遣ると父が惜気(おしげ)もなく親切にいってくれられた。しかし自分は金はいらぬけれども、道中少しもなしでは困ります。金の入用なほどにこの身体が保つか、もしくはこの家の金を当てにせずと活計が立つようになるか、いずれにしても自分の身体は短いうちに始末がつかなければなりませぬから、ただ当坐の入費に百両だけの金を下さいといったら、よろしい持ってゆけということで、百両貰ったことを覚えている。」
つまり、栄一が高崎城乗っ取り計画を中止し、京都に出奔する際に、栄一から改めて100両ものお金の融通をお願いされた市郎右衛門は、易々と応諾しています。 市郎右衛門の優しさにびっくりするのはいうまでもありませんが、頼まれた100両ものお金がすぐに準備できる渋沢家の財力にもびっくりします。

