栄一、円四郎の家来として上京(「青天を衝け」66)
栄一と喜作は、高崎城乗っ取り計画を断念した後、江戸を経由して京都に上ります。いよいよ一橋家臣編の始りです。
「青天を衝け」第13回は二人が、まず江戸に上るところから始まり、熊谷宿で五代才助(友厚)と遭遇するというまさかの展開でした。まさか五代才助(友厚)が熊谷宿でが出てくるとは思いませんでしたが、五代友厚は熊谷に住んでいたことは史実です。そのシーンが終わると平岡円四郎邸での場面となり、平岡円四郎から京都にくるようにという伝言が伝えられ証文が渡されるという展開でした。
そこで、今日は、栄一たちが平岡円四郎の家来として上京した様子を解説します。
その前に、栄一たちを送り出す血洗島の渋沢家の様子が、栄一の長女穂積歌子(「青天を衝け」ではまだ産まれたばかりの赤ん坊です)の「はゝその落葉」に書かれていますので、それを現代文に変えて紹介します。

「その年の冬11月8日、父(栄一)と喜作は喜作は、いつ家に帰ってこれるかわからない覚悟で家を出ました。この悲しい別れでも母君(千代)は女々しく嘆くことなどもせずに、「留守はしっかり守りますのでご安心ください」と潔く言って甲斐甲斐しく旅の準備をする心の中はどうだったでしょうか。父(栄一)も喜作も今回の事については本当のことは、母親たちにさえ話しませんでしたが、尾高家の祖母(惇忠の母)には打あけていました。今回の旅立も世間の人々には伊勢参りに行くと言っていましたので、手計村の家(尾高家)にて武士の姿になり、しかも人目を憚(はばか)っているので、11月8日の夜明け前に、尾高の伯父君(惇忠)が一人起き出して、自分の手で饂飩(うどん)をあたためて、栄作と喜作を送り出したそうです。」
栄一と喜作は、堂々と出かけたわけではないようです。しかも、いつ帰るかわからない中でも夫を気づかう千代の健気な様子、そして、二人を温かく送り出す尾高惇忠の思いやりがわかる文だと思います。
こうして、血洗島を出立した栄一たちは江戸に入り平岡円四郎の屋敷に行き、円四郎の家来として京都に向かいました。
栄一は「雨夜譚(がたり)」で
「自分と喜作とは十一月の八日に故郷を立って十三日まで江戸に逗留して、それぞれの準備をしたが、いよいよ十四日に江戸を発足して、その日は東海道程ヶ谷宿に一泊したように覚えて居ます、そこでこの京都行の手続きは、どうしたかというに、」として、平岡円四郎の家来という名目で京都に上ることにしようとしたと語っています
しかし、「この時に平岡は既に一橋公の御供で、九月に京都へいって留守であったから、その留守宅を尋ねて、細君にその事情を述べて、京都へゆくために当家の御家来のつもりにして先触(さきぶれ)を出すから、この事を許可して下さいといったところが、細君のいうには、かねて円四郎の申付には乃公(おれ)が留守に両人が来て、家来にして貰ひたいといったら、許してもよいということであったから、その義ならば差支ない、承知したといわれたから、両人は平岡円四郎の家来といふ名目で歩行(ある)きました。」と書いています。
「青天を衝け」も、この「雨夜譚(がたり)」のように描かれていました。栄一側からみると、この通りでしょう。しかし、このように、栄一と喜作が、一橋家の家来として、先触(さきぶれ)を出してまでして東海道を旅することできたのは、川村恵十郎によって準備万端手配されていたから可能だったことと思われます。
その準備の様子について、栄一は、「雨夜譚(がたり)」や「青淵回顧録」の中で何も語っていませんが、川村恵十郎の日記に残されていて、そちらからよくわかりますので、川村恵十郎の日記の栄一たちに関する主な部分をみていきます。
文久3年(1863)9月23日に、栄一と平岡円四郎が面会した後の9月26日の日記には、川村恵十郎が平岡円四郎を訪ねると、平岡円四郎の「渋沢両人模様大ニ宜敷(渋沢両人に対する印象は大変よい)」ということで、平岡円四郎も両人に好感を持っていて、一両日中に栄一等の領主岡部藩安部家へ交渉をすると言っていたと書いてあります。
10月1日に、川村恵十郎が平岡円四郎を訪れて、安部家と交渉の結果について尋ねたところ、平岡円四郎はまだ安部家から何の挨拶もないが、この件は必ず何とかするということで、都合によっては御用達という名目にでもするかとまで言っています。
そして、19日には、目付の榎本亨造から川村恵十郎宛に、栄一等に上京するように命じた書面が来て、そのことを川村は栄一たちに話したと書いてあります。
23日には、川村は平岡円四郎の所へ行き、栄一等の上京についての道中先触(さきぶれ)の件その他を相談し、結局栄一等は平岡円四郎の家来として京へ登らせることに決定しています。そして、翌24日には、川村恵十郎から、このことを栄一たちに話したと書いています。
なお、先触とは、幕府役人や諸藩の役人などが旅行する際に、旅に先立って,通行する街道の宿場に対して,必要とする人足や馬の数,さらには,到着日や休泊の予定を知らせることまたはその書状をいいます。
26日、川村は、一橋邸へ行き、御祐筆組頭の須賀源八郎に、栄一等が出府したなら平岡の宅状(平岡円四郎は既に上京中しているため、その留守宅から差出す書状)があれば適切に取り計らうことを確約しています。
こうして、一橋家の手配を固めた後、27日に喜作が川村恵十郎を訪ねてきたので、喜作に江戸に出府したならばすぐに平岡円四郎の屋敷へ行き、その上で万事処置するように指示しています。その後、川村恵十郎は、平岡円四郎の屋敷を訪れ、「渋沢両人来候節、一橋江書状差出可遣之旨、万々おやすとのへ談判」、つまり平岡円四郎の妻おやすに、渋沢両人(栄一と喜作)が来た際には、一橋家へ(先触願いの)書状を差出して遣ってくれるように談判(依頼のこと)しています。
このように川村恵十郎が下準備を万端整えてくれたため、栄一は「途々一橋家の用人平岡の家来であるという先触れを出して置いたので、途中少しの心配もなく、所謂東海道五十三次の宿(とま)りを重ねて、その年の11月末頃に京都に入った。」(「青淵回顧録」)のでした。

