栄一、京で暮らす(「青天を衝け」67)
「青天を衝け」第13回で、京都に着いた栄一と喜作は、いきなり土方歳三と遭遇することになります。土方歳三は栄一たちに一瞥(いちべつ)を与えただけで去っていきました。栄一は、のちに土方歳三と一緒にある任務を果たすことになりますので、「青天を衝け」で箱館戦争が描かれれば、そこで改めて土方歳三は登場するでしょう。
また、土方歳三と喜作は、箱館まで行って新政府軍と戦いますので、そこでも登場するかもしれません。
さて、京都に着いたのは11月25日で、一橋家に仕官したのが、翌年2月12、3日頃です。その間、栄一たちはどうしていたのか「雨夜譚(がたり)」で見てみましょう。
京都に着いた栄一たちは、三条小橋脇の茶屋久四郎すなわち茶久という上等の旅籠屋に滞在していました。
そして、尊攘派の志士たちを訪ねていろいろ情報を集めたり議論をしたりしていました。そして「京都へ来てから一月余りはそんな事で至極面白く遊んで居た」、しかし、「幕政を覆そうという一条については、その端緒にだも出会することは出来ない。」状況でした。「それゆえその歳の冬押詰ってから、ただこうやって遊んで居ても詰らぬから今の内にどこかへ旅行でもしようかということを喜作と申し合せて、まず伊勢参宮がよかろうといって同道で出立した。(中略)すいぶん面白く伊勢参宮をして、再び京都へ帰って来て正月も無事で済んだ。」
こうして、遊び回っているうちに懐具合が芳しくなってきました。「青天を衝け」でも、栄一と喜作が金がなくて困り切ったシーンがありましたが、それは「雨夜譚(がたり)」の話に基づくものです。「雨夜譚(がたり)」に、「京都へ来てから後に始終滞留して居た処は三条小橋脇の茶屋久四郎の家で、すなわち茶久という上等の旅籠屋でありました。最初は上等の旅籠で泊ったけれども、伊勢参宮をするについてそれまでの旅籠代をまず一回勘定してみると、メッキリ懐中がさびしくなった。 ソコデ自分は喜作に相談してこの姿では御互いに一身の斃れるまで生活の維持が出来そうもないから、 ここで一つ旅宿に掛合って今少し安価で止宿(ししゅく)の出来るようにせざなるまいといって、やがて主人を呼んで、食事は何でもよいから些(ちっ)と安く泊る工夫はないかといったら、とうとう、食事は朝晩二度と定めて昼飯は食わぬはずで、一日一人の旅籠代を四百文に負けようということになった。この四百文は今から見ると安いけれども、その時分にはこれでも上等の御客であった。普通の旅籠は概して二百五十文ぐらいの処へ四百文だから決してまだ窮迫の場合とはいわれぬのだが、しかしかように永滞留するつもりなら最初から下宿屋に投すれば便利であったものを、何分新前(しんまえ)の書生だからその辺の勘定などはとんと心付きがなかったのであります。」と書いてあります。「青天を衝け」でも宿屋の主人との交渉が描かれていましたが、実際に相当困ったのでしょう。
ところで、栄一は、血洗島を出る時には、父市郎右衛門から百両を貰っていましたが、それはどうしたのかという疑問がわきますが、栄一は、それについても「雨夜譚(がたり)」で語っています。まず「江戸に遊んで居る間にはあるいは芳原(吉原)へ行ったこともあり、その他無駄な事にも使って、たちまち二十四、五両の金がなくなってしまった」(岩波文庫「雨夜譚(かたり)」p53)と語っています。そして、別の所の話によると「自分が家を出るとき父から恵まれた百両の金は、江戸で使い道中で使い、また伊勢参宮で使い、京都滞在中2カ月余りの旅籠代を払いなどして、この歳の二月頃からはほとんど貯えが尽き果てたから、一橋家に勤仕して居る一、二の知人からあるいは一両あるいは五両と借入れて、つまり両人で二十五両ほどの借財が出来ました。」(岩波文庫「雨夜譚(かたり)」p683)そうです。つまり、百両はすべてつかいきって手元のお金がすっからかんとなってしまいました。そこで、一橋家の知り合いからお金を借りてしのいだようで、一橋家に仕官する時には、その額が25両となっていたそうです。血洗島を出てからわずか3ヶ月余りで125両ものお金(1両が現在価値で10万円とすると1250万円にもなるお金)を使い切ったのですから、相当、使いましたね。すごいです!
余談ですが、こうしてできた25両の借金ですが、栄一は、一橋家に仕官できると、節約生活を徹底して、とうとう4.5ヶ月の間にこの借金を返してしまったそうです。
借金返済のために、一橋家の屋敷内の長屋で、飯を自分たちで炊き、みそ汁も自分たちで作る自炊生活したのは当然ですが、さらに蒲団を二人で別々に借りるのは費用が増すといって、蒲団三枚を借りてその中に二人が背中合せになって寝るという工夫をして25両を返し切ったと「雨夜譚(がたり)」で語っています。使うほうもすごいですが、借金を返すほうもすごいです!
このことについて幸田露伴も「渋沢栄一伝」の中で次のように語っています。

「(この借金返済は) 如何(いか)にも謹直なことで、 当時の志士などというものは多く磊落不羈(らいらくふき)で細行(さいこう:些細な行い)を顧みないものであった中に、この両人のかくの如き行為は、正に後年実業家として大を為すに至った所以(ゆえん)をば予(あらかじ)め語るものと云って宜い。」
さらに、幸田露伴は「この金を貸して呉れた者は一橋の家士猪飼勝三郎その他ということだ。が、二十五両はその頃では少い金ではない。もとより人物は信用は得ていたろうが、旅鳥の浮浪人に能く貸したものである。(こうしたことを考えると)一橋家に随身せぬ前、長七郎被召捕(めしとられ)事件が二人を危険に臨ませた前から、二人と一橋家家中との間に、単に志士間の朋友交際というよりはなお少し進んだ関係が結ばれていたろうことが思われる。」と一橋家に仕官する前から何らかの繋がりがあったのではないかと推測しています。

