長七郎、捕縛される(「青天を衝け」68)
栄一と喜作が大金をはたいて京都で暮らしていると、突然、長七郎が捕縛されたと言う驚くべき連絡が入りました。
その連絡と言うのは、長七郎自らが書いた手紙でした。「青天を衝け」では、尾高惇忠が出したものとしていましたが、「雨夜譚(がたり)」では、「獄中から出した書状」となっていますので、長七郎が出した手紙だと思われます。
その内容とは、「長七郎が中村三平と福田滋助の両人を連れて、江戸へ出る途中で、何か事の間違いから、捕縛せられて遂に入牢した」ということでした。
「雨夜譚(がたり)」では、こうしか書いてありませんが、人物叢書「渋沢栄一」(土屋喬雄著)や「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一そしてその一族の人々」(渋沢華子著)によると、長七郎は、江戸から中村三平・福田滋助とともに血洗島に向かっている途中の戸田ヶ原(現在の埼玉県戸田市)で飛脚を切り捨てたとされています。その時の長七郎の言い分は、狐が見えたので切り捨てたということでした。(なお、「雨夜譚(がたり)」では江戸に向かう途中となっていますが、土屋喬雄氏と渋沢華子さんの本では江戸から帰る途中と書いてあり、微妙な違いがあります。いずれが正しいかは不明です。)
前年11月の高崎城乗っ取り計画の謀議の際には、最後に泣き出してしまっていたこともあり、精神に異常をきたし始めていたものと思われます。
この連絡は栄一と喜作を大変驚かせました。まず、長七郎が捕縛されたことに驚きましたが、さらに京都から二人が出した手紙を持っていたことも二人を驚かせました。
二人が京都から出した手紙には、「京都は有志の人も多いから、貴兄も京都へ来て共々に尽力するがよい、かねて見込んだ通り、幕府は攘夷鎖港の談判のために潰れるに違いない、我々が国家の為めに力を尽すのはこの秋(とき)であるから、それには京都へ来て居る方が好かろう。」という内容でした。「徳川慶喜最後の寵臣 渋沢栄一そしてその一族の人々」(渋沢華子著)によれば、この二人が出した手紙は、尾高惇忠に届き、尾高惇忠から、江戸に出ていた長七郎に福田滋助によって届けられたそうです。
この手紙が長七郎の捕縛とともに捕吏の手に落ちたということが長七郎から届いた手紙に書かれていました。もし、これが事実であれば二人にも嫌疑がかかることになります。そのため、二人は、この捕縛は長七郎の問題という他人ごとではなく自分たちの問題でもあるととらえて一層驚いたのです。
なお長七郎と一緒に召捕られた中村三平は、かねて栄一たちと高崎城乗っ取り計画に参加した同志でした。また、福田治助(滋助)は、東の家(ひがしんち)の宗助の娘こまが嫁ついだ福田彦四郎の息子で、栄一や喜作とは従弟にあたり、後に喜作の姉よねと結婚しています。
この手紙を受け取った二人は、こうなる事だったら、むしろ11月に事を挙げた方がよかったなどと愚痴と悲憤とで言葉もなく、手紙をみては扼腕切歯するばかりだったようです。そして、腹でも切るより外に仕方がないというまで追いつめて考えたり、喜作は明日すぐに江戸へ帰ろうと言いだしたり、長州の多賀屋勇を頼って長州へ行こうという案も出たりしたものの、いずれも良案とはいえば、万事窮すという状態で煩悶の時を過ごしました。
こうして二人が進退窮まって困り果てた時に平岡円四郎から呼び出しがかかるのでした。それからのことは次回書きます。

