五代友厚、熊谷に潜伏(「青天を衝け」70)
「青天を衝け」第13回の冒頭部分に五代友厚(「青天を衝け」では才助ですが、友厚のほうが有名ですので、以降友厚として説明します。)がいきなり出てきました。ディーン・フジオカが五代友厚役で登場することは告知されていましたが、 明治以降、「東の渋沢栄一、西の五代友厚」と言われたので、五代友厚が登場するのは明治以降かと思っていましたが、予想以上に早い段階で登場したので驚きました。
「青天を衝け」では五代友厚は逃亡中と紹介されていましたが、五代友厚が熊谷に潜伏していたことは史実ですので、今日は、五代友厚がなぜ熊谷に潜伏していたかについて書いていきます。
五代友厚は、天保6年(1835)に薩摩藩の儒者五代直左衛門秀尭の次男として生まれました。幼名徳助または才助といいました。号を松陰。少年時代には藩の造士館で文武を学び、安政1年(1854)父の死後、藩に出仕して郡方書役となり、安政4年、幕府の長崎海軍伝習所に遊学しました。文久2年(1862) 上海に渡り、薩摩藩のために汽船・武器を購入してきました。
文久3年、 生麦事件によって薩英戦争が起こりましたが、この時、五代友厚は寺島宗則(当時松木弘安)と共に、上海で購入した船(青鷹丸)に船長として乗り組んでいました。イギリス艦隊の砲撃が始まる前に、イギリス艦隊は、五代友厚たちが乗っている3隻(青鷹丸・天祐丸・白鳳丸)の船を攻撃し拿捕してしまいました。乗組員は全員退避させましたが、五代友厚と寺島宗則はあえて捕虜となり、イギリス船内に捕らえられました。そして、二人は、そのまま、横浜港まで連れていかれました。
横浜港で、イギリス側の配慮により、五代友厚と寺島宗則は、通訳としてイギリス船に同乗していた武蔵国羽生(現在の埼玉県羽生市)出身の清水卯三郎とともに小舟でイギリス艦をこっそり脱出し江戸に入りました。しかし、「(薩摩では)なんといってもおめおめと捕虜となったことを強く批判されていた。そんなことから横浜に上陸しても身の危険が案ぜられ」(「五代友厚伝」宮本又次著)たため江戸には長くは滞在せず、清水卯三郎の故郷の羽生に近い熊谷宿の郊外の四方寺村(現在の熊谷市四方寺)名主で清水卯三郎の親戚でもある吉田六左衛門宅に身を寄せました。その後、その分家で下奈良村(現在の熊谷市下奈良)の名主吉田市右衛門の屋敷に潜みました。こうした事情があり、五代友厚は熊谷宿に潜伏していたのでした。
私は、五代友厚が熊谷に居たことを知っていましたが、「青天を衝け」で熊谷宿の茶屋のシーンで出て来るとは思ってもいませんでした。この五代友厚が碁を打っていた茶店ですが、この茶店のモデルとなったのは、熊谷の久下にあった「みかりや」という茶屋だと思われます。「みかりや」があった久下と五代友厚が潜伏した下奈良はかなり離れていますので、ここのシーンは創作だと思います。
「みかりや」という屋号は、忍藩主が狩りのときに休んだことが由来とされています。渓斎英泉「岐阻(木曽)道中熊谷宿 八丁堤景」に、「みかりや」が画面左に描かれています。これと「青天を衝け」の茶店は雰囲気は似ているように感じます。

五代友厚自身は熊谷潜伏ついて書いていないようですが、五代友厚と寺島宗則の二人が熊谷に潜伏した経緯を非常に詳しく書いたものが福沢諭吉の「福翁自伝」です。
「福翁自伝」では、薩英戦争の開戦から書いてありますが、すべて引用すると非常に長くなりますので、横浜でイギリス船を降りたあと、羽田に上陸した部分から引用します。
「羽根田の浜から上陸して、ソレカラ道中は忍び忍んで江戸に這入るとしたところで、マダ幕府の探偵が甚だ恐ろしい。ただの宿屋には泊られないから、江戸に這入ったらば、堀留の鈴木という船宿に、清水が先へ行って待っているからそこへ来いという約束がしてある。ソコで両人は夜中勝手も知れぬ海浜に上陸して、探り探りに江戸の方に向かって足を進める中に夜が明けでしまい、コリャ大変とそれから駕籠に乗って顔を隠して堀留の船宿に来たのがその翌日の昼であった。清水は昨夜から待っているので万事の都合宜しく、その船宿に二晩ひそかに泊って、それから清水の故郷武州埼玉郡羽生村まで二人を連れて来て、そこも何だか気味が悪いというので、またその清水の親類で奈良村に吉田市右衛門という人がある、その別荘に移して、ここは極淋しい所で、見つかるような気遣いはないと安心して、二人とも収め込んでしまい、五代はその後五、六カ月してひそかに長崎の方に行き、松木はおよそ一年ばかりもそこに居る(後略)」(岩波文庫「福翁自伝」p152)
捕虜となった二人がなぜ潜伏したかという理由も「福翁自伝」に書かれていて、「イギリスが捕虜になった二人を薩摩に還せばすぐに殺すに決まっているし幕府の方に渡せば牢に入れられる」という状況であったためとしています。

また、五代友厚は自叙伝はありませんが、一緒に潜伏していた寺島宗則は、「自叙年譜」を書いていて、それに熊谷潜伏の様子が書かれています。それは「夜ニ至リ小艇ニテ河嵜驛ノ河流ノ下ヨリ上陸シ」という書き方ですので、読みやすくするため現代風に変えて紹介します。
下奈良村の吉田家は、代々「市右衛門」を名乗り名主を勤め、そして洪水などの災害復興、飢饉の際に貧民救済に私財を投じ社会事業家・慈善事業家として地元に大きな貢献をしました。「熊谷人物事典」によると五代友厚をかくまった吉田市右衛門は、5代市右衛門宗戴(むねとし)です。
吉田家の屋敷は、現在は、残されていませんが、吉田市右衛門歴代のお墓が熊谷市の集福寺に残されていると聞き、集福寺を訪ねてきました。下写真は集福寺の法堂(はっとう)です(いわゆる本堂)

集福寺は、曹洞宗のお寺で、現在も七堂伽藍が残された見事なお寺です。
集福寺の建立は鎌倉時代後期の永仁年間(1293~1299年)。もともとは臨済宗でしたが、その後、室町時代末期の天文年間(1532~1555年)に忍城主成田下総守親泰が開基となり、曹洞宗へ改宗して今日に至っています。江戸時代には幕府から20石の知行を拝領しています。
集福寺は、現在も、江戸時代後期に建てられた山門・仏殿・法堂・鐘楼などが残っていて素晴らしいものでした。下写真は仏殿です。

吉田家の墓所には、五代にわたる歴代吉田市右衛門のお墓がありました。その中で、下写真が、5代目市右衛門宗戴(のち市十郎)のお墓です。法名は「乗裕宗戴信士」です。五代友厚は、明治になってから、佐渡金山、石見銀山とともに三大鉱山の一つに数えられた半田銀山(福島県桑折町)を経営するようになりますが、自分を匿ってくれた吉田市右衛門(市十郎)に、その経営を任せました。

集福寺では、本堂内でご住職にいろいろお話を伺うことができました。立派な建物群は吉田市右衛門の寄進によるもので三代にわたって建立されたものだそうです。本堂内も見事なもので、透かし彫りの欄間が堂内を埋めていました。(下写真)

また、天井にも花鳥絵図が描かれていました。(下写真)これだけ見事な建物を建立して寄進した吉田市右衛門家の財力はすごいものだと感心させられました。

ご住職のお話では、江戸の高林寺(江戸時代初期に御茶ノ水にあり御茶ノ水の名前の由来となった井戸があったことで有名、現在は駒込に移転し緒方洪庵のお墓がある)、さらに「とげぬき地蔵」で有名な巣鴨の高岩寺、この二つのお寺の開祖はともに集福寺のご住職で、高岩寺は五世扶嶽太助大和尚、高林寺は六世桂岩宗嫩大和尚により開山されたそうです。

