栄一、仕官とその後の節約生活(「青天を衝け」73)
栄一は、拝謁がおわり、無事、一橋家に仕官することとなりました。それは、文久4年2月12.3日ごろだろうと「雨夜譚(がたり)」で語っています。
最初は御用談所下役
栄一と喜作が一橋家に仕官しての最初の身分は奥ロ番という役名で、奥のロの番人でした。この奥ロ番というは、両人の身分に属する役名で、実際の仕事は、御用談所下役でした。
「雨夜譚(がたり)」に「(奥口番というのは、)両人の身分に属する役名」と書いてある部分が、少し理解しがたいのですが、「二人が本来所属している担当名は奥口番で、実際の仕事は御用談所下役」という意味かなと思っています。
さて、御用談所というものは、諸藩でいう留守居役所のようなものであったそうです。
二人の俸禄というはわずかに四石二人扶持で、ほかに京都滞在中の月手当が金四両一分でした。
京都での困窮生活
この後、栄一は、「雨夜譚(がたり)」で、京都での生活の話をしていますので、少しそれについて書いてみます。京都で、非常に節約したという話は下記記事でも書いていますが、重複しないよう心掛けながら書いていこうと思います。
血洗島を出るとき、父市郎右衛門から百両の餞別をもらいましたが、「江戸で使い道中で使い、また伊勢参宮で使い、京都滞在中二カ月余りの旅籠代を払いなどして、この歳の二月頃からはほとんど貯えが尽き果てたから、一橋家に動仕して居る一、二の知人からあるいは三両あるいは五両と借入れて、つまり両人で二十五両ほどの借財が出来ました。」
そうした時に仕官が叶い、四石二人扶持、月俸四両一分の身分になったので、極力節約して借金を返済しようと考えました。
そこで、「月々に請取る四両一分の金を大切にして、無益の事には一銭たりとも使用せすに置きました。」
二人の部屋は、八畳二タ間に勝手の付いた長屋でした。
そこで、「朝夕の食事も汁の実や沢庵(たくあん)を自分で買出しにいって、時々竹の包みに牛肉などを買って来た、それが最上の奢(おご)りであった。」ようです。時々は、牛肉を買ってきたということですが、当時、京都で牛肉を手に入れられたというのかなという疑問が多少残りますが、栄一が書いているので信じたいと思います。
また、「飯の炊き方もその時に覚えたが、始めのうちは粥のようなものが出来るかと思うと、またその次は硬い飯が出来て両人でいつも苦情があったが、だんだんに慣れて見ると全く釜をかけて研ぎ上げた米を仕かけ、その米の上にンツト手を置いて少し水の乗るくらいにすれば好いエ合に出来るということを覚えた。それから味汁を摺ることは以前から知って居たから、自身で豆腐汁または菜の汁などを拵えたこともあった。」そうです。
「青天を衝け」でも、初めてご飯を炊いておかゆになってしまったと騒ぐシーンがありましたが、それも実話ですね。
ふとんの件は、以前も書きましたが、「蒲団三枚を借りてその中に二人が背中合せになって寝る」ようにしたそうですが、「青天を衝け」でも、そうして寝ていましたね。
こうして、借りた二十五両を四、五カ月の内に借金を返してしまいました。
恩人猪飼勝三郎(正為)
ところで、栄一は、「実験論語処世談」の中で、「廿五両を貸した猪飼翁」というタイトルで当時の思い出を語っています。それによると「雨夜譚(がたり)」とは違っていて、一橋家に仕官した際に、猪飼勝三郎(正為)から二十五両借金したと書いています。
「青天を衝け」でも、遠山俊也が演じる猪飼勝三郎からお金を借りるシーンがありましたので、「青天を衝け」は、「実験論語処世談」を基に描いているのだと思います。
「金に困った二人は、誰か彼かと貸してくれそうな人の名を挙げて話し合ってるうちに、一橋家の御側用人で番頭を務めて居た猪飼正為という人ならば二三度遇ったこともあるが、情深そうに見える人故、事情を打明けて頼み込んだらあるいは快く金子を貸してくれるやも知れぬということにより、両人にて猪飼の宅に出向き、金子(きんす)の借入方を依頼に及ぶと予期の如く快諾してくれたのである。漸(ようや)くそれで鍋釜を買い、一橋家の長屋に引移れることになったのであるが、一度借りただけの金額では間に合はず、前後三回ばかり総計二十五両を借りたように記憶する。」
このように 猪飼勝三郎(正為)からおカネを借りましたが、栄一は、このことに明治以降も深く感謝しています。
謝恩の気持ちを栄一は「実験論語処世談」の「猪飼翁私の見舞を悦ぶ」で語っていますが、心温まるものですので紹介します。
「この猪飼正為という方は、今なほ丈夫で存生して居られるが、私よりも少しばかり年長な筈である。この方は一橋家でも武官出身の人で番頭役といふ武官である。元は御小姓を勤められ、それで武官の方に這入られたものだから、番頭で御側用人をも兼ねられて居ったのであるが、その息子さんは現に大蔵省に奉職して居られる。(中略) その年内に二十五両を皆済してしまつたのである。私たちが斯(か)く几帳面に借金を返済するのを見、猪飼氏は私たちを堅い人物だというて、非常に賞めてくれたものである。賞められるだけそれだけ私たちは苦しかったのだが、自分で市中に買い出しに出かけ店頭に下げてある牛の肉を買って帰り、これに葱を切って入れ、一緒に自分たちで、煮て食ったりなぞして当時はその日を送ったものである。それは兎も角として、当時私たちが自炊ながらもその日を凌げるようになれたのは、全く猪飼正為氏が私たちの窮境を憐れんで二十五両を貸して下されたお蔭によることだと思うので、私は今日に至るまでこの旧恩を忘れず、同氏の息子さんは大蔵省に奉職して居っても、まだ至って薄禄のこと故、御恩返へしのつもりで、及ばずながらかれこれと御力になるように致して居る。」と恩返しを心がけていると書いています。
そして、栄一のこうした報恩に対する猪飼勝三郎(正為)の喜びようも書いてありますので、続けて紹介します。
「猪飼氏の息子さんは大抵毎日曜日に私の宅を訪われるが、猪飼老人も私が旧恩を忘れず些(いささ)かでも御尽し申しあげるのを非常に悦ばれて居るそうで、息子さんの話によれば『おれには渋沢が付いてるから安心だ』と、甚(いた)く力んで居られ、昨年の夏病気に罹(かか)られた時なぞ、私から見舞に菓子折を差上げたのだが、『これは渋沢から己(お)れに呉れたのだから、他の人には決して食わせぬ、己れ一人で食う』なぞと言われて御自分一人で菓子折を大事にして食べられたそうである。私とても、こういう話を聞けば、また満足を覚えぬでもない。単に猪飼氏のみならず、かつて一橋家に在られた方々に対しては、旧恩を思うて及ばずながら御世話申上げることに致して居る。」
これら「実験論語処世談」の猪飼勝三郎(正為)に関する記述を読むと、一橋家に仕官する頃は、本当に素寒貧で困ったこと、その時に借りた25両が非常にありがたかったこと、そして、それを貸してくれた猪飼正為に大変感謝していることがよくわかります。それにしても、猪飼勝三郎、「この菓子は渋沢から俺がもらったのだから、俺一人で食べる」と言っているのなんかはほほえましい気もします。

