栄一、篤太夫と改名(「青天を衝け」78)
「青天を衝け」第15回冒頭で、栄一は、平岡円四郎から「篤太夫」という名前をもらい、以後、「篤太夫」と名乗ることになりました。
栄一の改名について、「渋沢栄一伝稿本」によれば、「先生(栄一のこと)、名、幼少の時は市三郎といひ、又栄治郎と改め、実名を美雄とつけたるは十二才前後の事なりしが、後又伯父渋沢誠室の命名によりて栄一と改め、之を通称となせり。安政三年六月先生十七才の時、尾高藍香(惇忠)に就いて名乗を請いしに、藍香「足下の通称栄一は好き字なり、(中略)」と、是より栄一を名乗とすること後まで渝(かわ)ることなし。但し通称の時には栄一郎と称し、一橋家出仕の初まで之を用いたるが、出仕後平岡円四郎改めて篤太夫と称せしむ。」と書いてあります。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第1巻 1ページより)これによれば、それまでの通称栄一郎を篤太夫に改名したとなっています。
ただし、栄一本人は、栄一郎と呼ばれていた記憶はないようで、次のようなやりとりが、「雨夜譚会談話筆記」に記録されています。(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第1巻 286ページより)
栄一「栄一郎という名はなかったヨ。これは何かの間違ではないか。」
岡田「子爵がお若い時、信州の方へ藍玉の商売においでになった時の藍玉通が残って居りますがそれには子爵御自身で栄一郎という御署名をなさつて居られます」
(藍玉通を子爵の御覧に入れる)
下写真は、渋沢栄一史料館に展示されていた藍玉通です。赤字部分に栄一郎と書かれているのが確認できます。
栄一「成程この署名は私の字だ。通の表紙の字はお父さんがお書きになったんだヨ。よく書いてあるだろう。然し私は自身で栄一郎と呼んだ覚えはないがネ。何かの間違いだヨ。」
その後で、「それから私が十七の時、藍香先生が私に栄一という名乗りを附けて呉れた。また字を仁栄と附けて呉れた。」と言っています。
本人が「栄一郎」という記憶はなく尾高惇忠がつけてくれた「栄一」の記憶がしっかりしていますので、「青天を衝け」とでも「栄一」と称しているのだと思います。ちなみに「雄気堂々」(城山三郎著)「小説渋沢栄一」(津本陽著)「渋沢栄一伝」(幸田露伴著)などの小説はすべて「栄一」としていて、唯一「激流」(大佛次郎著)だけが「英二郎」としています。
この平岡円四郎がつけてくれた「篤太夫」という新しい名前について、「御口授青淵先生諸伝記正誤控」の中で、「それは平岡がつけて呉れたのだ。平岡がね、『君は地味さうな男だから篤太夫がよからう』と言ってくれたので、『篤太夫は何だか親父のやうな名前でどうも少し……』と言ったのだが、『それがよい』というのでまアさうした。篤行を以て人を教へよとのつもりである。」と語っていますので、本人にとってはそれほど気乗りのしない名前だったと思われます。
こうしてつけられた「篤太夫」ですが、一橋家家臣時代を通して使用していましたが、明治になってから、また改名しています。これについても先に紹介した「雨夜譚会談話筆記」の中で次のように語っています。
栄一「維新以後になって、太夫とか左衛門といったような官職に属する名を太政官達で禁ぜられたので、篤太夫を改めて篤太郎とした。それから今度は法律を以て、一人で幾つもの名を持つ事が禁ぜられた。そこで篤太郎をやめて、栄一を用ふる事にした。(後略)」
高田「子爵が明治の初年、大蔵省時代に源ノ栄一とお書きになった事がありますが、あのときのは『ヒデカズ』と読むのでございますネ。」
栄一「そうです。」
こうした証言からすると、「栄一」は、当初「ヒデカズ」と読んでいたようです。それが、いつから「エイイチ」と呼ばれるようになったかは不明で、いつの間にか、そう呼ばれるようになったようです。
篤太夫という通称が使用禁止となった太政官の布告についても調べてみました。
その布告は、明治3年11月19日の太政官布告第845で、これには「国名並旧官名ヲ以テ通称ト為スヲ禁ス」つまり「国名並びに旧官名をもって通称とすることを禁ず」と定められていました。
これにより「〇太夫」「〇左衛門」「〇右衛門」等の名前は禁止されました。「篤太夫」という通称には「太夫」いう旧官職名が使用されているので、この名前は使用できなくなりました。これにより、栄一は、明治3年7月27日に「篤太郎」と改名しています。
さらに明治5年5月7日に出された太政官布告第149号に「従来通称名乗両様相用来候輩自今一名タルベキ事」つまり「従来の通称と本名の二つを使用してきた人々これからは名前は一つでなければならない」とされ、複数の名前を使用することが禁止されました。これにより、「篤太郎」を使うのをやめて、「栄一」を使用することにしたようです。