栄一、西郷と豚鍋を食べる(「青天を衝け」82)
「青天を衝け」第15回の解説の最後に、栄一と西郷とが豚鍋を食べたことにっいてお話します。「青天を衝け」では折田要蔵のところで西郷隆盛と豚鍋を食べていました。しかし、栄一が西郷と豚鍋を食べたのは史実ですが、折田要蔵のところではなかったようです。
栄一には「実験論語処世談」という著作があります。「実験論語処世談」は、栄一が『論語』をテーマに実体験を語った談話筆記です。
その中に、栄一が西郷隆盛と一緒に豚鍋を食べた話が載っています。
栄一は、一橋家に出仕するようになってから御用談所の下役に任ぜられました。御用談所というのは、諸藩の御留守居役や志ある人物を訪ね、その意見を聞いたり、諸藩の情勢を探る一橋家の外交部ともいうべき役割をもっていました。
そこに所属してしばらくしてから西郷隆盛とも会うこととなりました。
西郷隆盛は、栄一を少しは見込のある青年だとでも思ったのか、いろいろ親切に話をしてくれたそうです。
そして、時には、「今晩鹿児島名物の豚鍋を煮るから一つ晩餐を一緒に食うて行かぬか、なぞと勧められ、同じ豚鍋に箸を入れて御飯の御馳走になって帰ったことも両三回はあった。」そうです。(デジタル版「実験論語処世談」より)
また、「竜門雑誌 第461号」では、次のように語っています。
「私が、京都で始めて西郷隆盛に会うたのは、元治元年2.3月の頃であつた。長州征伐の片がついて、征長総督徳川慶勝から、毛利敬親父子伏罪、防長鎮定の旨を奏上した。何でも、その前後である。西郷は、当時、相国寺(しょうこくじ)に宿をとっていた。下宿ともつかず、自炊ともつかず、寺の厄介になっていた。(中略)私は、一ツ橋徳川慶喜公の家臣として、西郷を相国寺にたずねた。私は、一ツ橋の周旋方であったため、実をいえば西郷の存意を内偵しようというのが、訪問の目的であった。折柄、飯時であった。『何にもないが、一緒にやらぬか』そういうようなことで、豚鍋をつついて、食事を共にした。というよりも、陪食(ばいしょく)に与(あずか)ったという方が適切かもしれない。」(デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第1巻302ページ)
栄一は、このように西郷隆盛との思い出を語っています。「実験論語処世談」の方では、時機や場所が語られていませんが、「竜門雑誌」では、元治元年2.3月に相国寺であったと語っています。
西郷隆盛が入京したのが昨日も書いた通り、元治元年3月14日ですので、それ以前の元年2月に西郷隆盛とは会うということはありえません。栄一が西郷隆盛に会ったのは早くても3月ということになります。
また、「竜門雑誌」によれば、栄一が訪ねたのは相国寺のようです。
相国寺は、室町幕府3代将軍足利義満が夢窓疎石を開山として創建したお寺で、京都五山第2位に列せられる臨済宗相国寺派の大本山です。相国寺は、幕末に、相国寺の境内の一部が薩摩藩邸となったということもある薩摩藩と縁の深いお寺です。 下写真は、相国寺の法堂(はっとう)です。豊臣秀頼によって再建されたものです。
相国寺で西郷に初めてあったとすれば、「青天を衝け」で描かれていた折田要蔵のところで出会ったというのは創作ということになると思います。
「青天を衝け」では、栄一は西郷と豚鍋を食べながら政治の話をしていましたが、そのことは「実験論語処世談」にも書かれています。
西郷は、「一橋は確かに人材で、諸侯中にあれほどの者は無いが、惜しい事に決断力を欠いてるから、(中略)、慶喜公に決断力を御つけ申すようにするがよい、しからばあえて幕府を倒さずとも慶喜を頭に立てて大藩の諸侯を寄せ集め統率しさえすれば、幕府を今のままにしておいても政治は行ってゆけるなぞと談(かた)られたこともある。」(「実験論語処世談」)と語っています。
栄一は、明治になってから新政府の大蔵省に出仕します。西郷は新政府の大物ですが、大蔵省の幹部となった栄一とはさまざまな機会で西郷と交渉をすることとなります。そうした話もいずれ「青天を衝け」で描かれることと思いますが、それらについては描かれて際に改めて説明しようと思います。