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慶喜、当初は長州討伐を自重(「青天を衝け」90)

慶喜、当初は長州討伐を自重(「青天を衝け」90

 「禁門の変」の際、慶喜は、諸藩の兵を指揮して長州藩討伐の先頭にたって戦いました。しかし、慶喜は、長州藩が京都周辺に進発してきた当初は、討伐論を抑え、長州藩に退京するよう説得する方針をとっていました。つまり討伐を自重していました。今日は、このことについて書いてみます。

 長州藩が、進発して6月末には京都周辺に駐屯しました。そして実際に戦闘が起こったのは719日でした。その間、20日間ほどの期間があります。この間、京都守護職松平容保を擁する会津藩、京都所司代松平定敬を擁する桑名藩、西郷隆盛が指揮する薩摩藩は討伐を主張しました。これに対して、慶喜は、討伐を拒否して、あくまでも説得すべきであるという考えでした。この慶喜の考えに対して、会津藩は強く反発し、後に「一会桑」と呼ばれるほど緊密な関係を誇った両者も、「禁門の変」直前には深刻な対立が生じていました。

 慶喜が、長州藩の説得にあまりにも熱心であったため、「長州へ内応」しているという噂が流れることもあったそうです。(家近良樹著「徳川慶喜」p75.75より)

 

 慶喜が自重論をとったことについて「昔夢会筆記」の中で慶喜自身は次のように語っています。

「私の考えでは、それは入京をお止めになっているところへ入京してみれば討ってもそれだけの名はある。 しかしながら、 向こうも表向きはとにかく歎願という名である。それで兵器を携えて入京したというのは、重々向こうが悪い。なれどもこの時に堂上方をはじめ諸藩も、長州へ荷担する者はたくさんある。それ故に私の考えでは、どこまでも説論をして、どうあっても聴かぬ暁に事が発すれば名義が立つ、ただ兵器を携えて入京したからと言って、ただちに兵を用いては少し軽率になるから、どこまでも説得するがよいという論であった。」

そこで、長州藩を徹底して説論したものの、「どうあっても聴かないで、後から追々に兵を繰り出すということが聞こえている。それでもうここにいたってはやむを得ないから、期限を立ててあちらへ達したのだ。そうすると、その期限の時に向こうから暴発した。暴発したので戦争になった」

慶喜は、このように穏便に対処しようとしたことについて、家近良樹教授は「徳川慶喜」の中で、次のような理由があるとしています。

慶喜、当初は長州討伐を自重(「青天を衝け」90)_c0187004_20302370.jpg

420日に幕府に下った沙汰書で、長州問題の処理が幕府に全面委任となり、家茂の帰府後、朝廷関係者の慶喜への依存が目立つようになるなか、慶喜としても寛大な処分を余儀なくされ、かつ彼個人としても禁闕の下において兵端を開くことに躊躇せざるをえなかったこと

②、慶喜は、長州藩の主張と行動が、過激な様相を呈したとはいえ、孝明天皇の攘夷意思を尊重しようとする点で同意でき、長州の主張と行動に一定程度の理解を示していたため。

③慶喜は、前年の「八月十八日の政変」の時には江戸にいて、長州藩を京都から追放した件にはいっさい関わりをもたなかった。つまり、長州藩士の怨みをかわないですんだ。従って、わざわざ長州藩に対して、強硬な姿勢をとる必要はなかった。

④朝廷のなかには長州藩を支援する公卿が多くいたし、慶喜と因縁の深い水戸・因幡・備前藩らの有志が、露骨な長州支援の態度を示したこと

※ここに、「慶喜と因縁の深い水戸・因幡・備前藩らの有志」とありますので、因幡藩と備前藩について説明します。

当時の備前(岡山)藩の藩主池田茂政は徳川斉昭の九男で、幼名は九郎麿といい、慶喜の異母弟です、一旦、忍藩主松平忠国の養子となりますが、安政の大獄の影響で縁組が解消され水戸家に戻りました。その後、文久3年に備前(岡山)藩池田慶政の養子となり,将軍徳川家茂の偏諱を賜わり茂政と改名しました。父親ゆずりの尊王攘夷主義者で、長州征伐にも反対しました。


因幡(鳥取)藩主池田慶徳は、徳川斉昭の5男として生まれ幼名五郎麿といい慶喜の異母兄です。嘉永3(1850) に因幡(鳥取)藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したことから、幕命によりその養子となりました。慶徳も攘夷論に立って京都政局で活躍したこともあったため、鳥取藩では、尊攘派の勢いも強いものがありました。

⑤慶喜の守衛にあたっていた水戸藩士らが長州藩に同情的で、慶喜の行動を掣肘したことである。

※京都に派遣された水戸藩士は、本圀寺に駐留していたことから、本圀寺党とも呼ばれることがあります。当初は、徳川慶篤が上京した際に随行した尊攘派の藩士が、慶篤が江戸に帰った後も本圀寺に留まり、慶喜の護衛等にあたりました。

水戸藩は、長州藩とも攘夷決行を促そうという盟約を結んだこともあり、長州藩に好意・同情を寄せる藩士が多くいましたので、心情的に長州討伐には消極的でした。

なお、本圀寺に駐留している水戸藩士は尊攘派の人々ですの、筑波山で挙兵した天狗党とも心情的に近い人が多く、天狗党の動きにも同情的でした。


by wheatbaku | 2021-06-08 18:33 | 大河ドラマ「青天を衝け」

江戸や江戸検定について気ままに綴るブログ    (絵は広重の「隅田川水神の森真崎」)
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