栄一、阪谷朗廬の褒賞を具申 (「青天を衝け」96)
歩兵取立御用で備中に向かい、そこで大きな成果を挙げたほか、一橋家の財政改革の建言まで行った栄一ですが、それだけに留まらず、善行者の褒賞の具申も行っています。「青天を衝け」では描かれていませんでしたが、今日は、この褒賞(特に阪谷朗廬の褒賞)について書いてみます。
栄一は、備中、摂津、和泉、播磨で、阪谷朗廬はじめ、親孝行の婦人、農業に一生懸命に励んでいるなどの善行を行っている人を調査して、帰京後、用人に具申したらすぐに採用されました。そして、阪谷朗廬は、京都に呼び出され慶喜に拝謁してお褒めの言葉を拝領し興譲館へ扶持が与えられました。
「雨夜譚」で詳しく次のように語っています。
「さきに歩兵組立のために領分内を旅行の時に、ありふれた事ではあるが、その土地に名誉ある人または孝子義僕を褒賞するは地方政事の必要と思いたれば、巡回中に聞き糺(たた)し、例の興譲館の阪谷先生を始めとして、あるいは備中にて親孝行の婦人とか、年老いて健全なる独身者とか、または摂泉播にて農業丹精の人とか、地方にて奇特の功あるものとかおよそ十余人の善行者を取調べて、帰京の上、その褒賞の事を用人へ具状した処が、速やかに採用せられて、それぞれ褒賞に与(あず)かり、特に興譲館の阪谷先生は京都へ呼出して君公(慶喜のこと)の謁を賜わり、相当の褒詞があって学校へは扶持方を付与されたから、地方にては一橋の徳を称し、かっ渋沢が来てから善政が多いとて、大いに自分の評判もよくなった」
阪谷朗廬の褒賞については「昔夢会筆記」の中でも、書かれています。下写真が阪谷朗廬です。井原市の特設サイト「渋沢栄一と井原」から転載させていただきました。
「余の京都に復命せし時、阪谷朗廬事をも言上し、黒川嘉兵衛にも説く所ありき。嘉兵衛も備中に下りて朗廬の賢を知り、また之を公に薦(すす)めしかば、慶応2年、公は朗廬を京都に召見(しょうけん)して論語を講ぜしめらる。朗廬激しく勤王を説き、「徳川家三百年の恩は大なれども、朝家三千年の鴻恩には比すべくもあらず」と言ひ放ちたれば、侍座せる人々手に汗を握れるに、公は頷かせ給うのみにて、何の問はせらるる所もなく、却(かえっ)て子弟教授の労を賞せられて、銀五枚・五人扶持を賜はりき。朗廬いかに思ひけん之を辞して、『是れ臣の私すべきにあらず、願はくは興譲館に賜はりたし』と言上せしかば、公すなわち任用の命を止め、その扶持米を以て興譲館に賜はりぬ」
阪谷朗廬が京都に召されて論語を講じた時、激しく勤王を説いたので、周りの人は心配したが、慶喜は特に問題にすることもなくて、かえって褒賞しました。
阪谷朗廬は扶持米は自分が頂戴するのではなく興譲館に与えて欲しいとお願いしたところ慶喜はそれを聞き入れて興譲館に扶持米を与えたと書いてあります。阪谷朗廬個人が褒められることより興譲館の運営のことを考えることに阪谷朗廬の人柄がしのばれるように思います。
この中で、語られている阪谷朗廬は、栄一と個人的にも非常に親しい関係になっていますので、詳しく書いておきます。下写真は三島中洲の撰文による「朗廬阪谷先生碑」ですが、東京の谷中霊園の阪谷朗廬のお墓近くに建っています。(下写真)
阪谷朗廬は、文政5年(1813) 備中国川上郡九名村(岡山県井原市美星町明治)に阪田良哉の三男として生まれました。名は素(しろし)、通称は希八郎、朗廬は号です。 大塩平八郎、昌谷(さかや) 精渓を経て、古賀侗庵(どうあん:寛政の三博士の一人古賀精里の三男)の久敬舎に学びその塾頭をつとめました。
その後、帰郷して、後月郡(しつきぐん)簗瀬村(現在の井原市芳井町簗瀬)に桜渓村塾を開きました。
嘉永6年(1853)秋、 一橋領代官が後月郡西江原村(岡山県井原市)に設立した郷校興譲館の督学(館長)に迎えられ子弟の教化にあたりました。
興譲館で館長をしていた時に渋沢栄一が訪ねてきて交流を深めました。
明治元年(1863)には、広島藩浅野家から藩政顧問に招へいされ広島藩に仕えましたたが、廃藩置県となったため禄を辞して、明治新政府に仕官しました。
そして、明治14年1月15日、60歳で没し、東京の谷中霊園に葬られました。下写真の右の墓碑が阪谷朗廬のお墓です。
阪谷朗廬の四男阪谷芳郎は、阪谷朗廬が亡くなった後の明治21年に栄一の次女琴子と結婚していますので、阪谷芳郎は、栄一の娘婿となります。下写真は国立国会図書館「近代日本人の肖像」より転載
この阪谷芳郎は、明治17年、東京帝国大学を卒業後、大蔵省に入省し、主計局長、大蔵次官を務めた後、明治39年、第1次西園寺内閣の大蔵大臣となりました。さらに明治45年から大正4年まで東京市長を勤めました。また、専修大学の学長も勤めています。